アヴァンギャルド・アウトテイクス

Shiny Booksが発行する雑誌『アヴァンギャルドでいこう』の公式ブログです。ウェブ限定記事を中心に様々なトピックを提供していくのでお楽しみに!

#1/『ジョーカー・ゲーム』~敗戦国のスパイとして生きる

例えば『アベンジャーズ』に代表されるマーベル・ヒーローらの痛快なアクションが“ホット”なものとするなら、往々にしてスパイ・アクションとは“クール”なものと位置付けることが出来るのではないかと僕は思っていまして。その理由の一端は登場人物の衣装、或いは装備に求めることが出来るのではないか、と。

クリストファー・ノーランが『バットマン』シリーズを監督して以来、全国のスクリーンはアイデンティティの危機に直面し、狼狽するスーパー・ヒーローの顔面のアップで埋め尽くされがちになった訳ですが。

まあ無駄な装飾だらけのコスチュームを身に纏うヒーローが『僕って、何なんだろう……』と悩む様の滑稽さはそれはそれで見ごたえがあるし、良いと言えば良いのですがそれは兎も角、やはりアイアンマンとジェームズ・ボンドは別物です。

じゃあ、アイアンマンとジェームズ・ボンドの違いとはなんなのか。その違いはそれぞれの作品において『スーツ』がどのようなアイテムとして扱われているか、を考えると分かりやすいです。

トニー・スタークにとっての『スーツ』は窮地に陥った自らを助けるために開発した、火炎放射器等を搭載した一種の“強靭な肉体”です。無論、普段の彼は“ロバート・ダウニー・Jr”な訳ですが、必要に応じて彼は自身の肉体を拡張出来、テロと戦うことも、また――『アベンジャーズ:エイジ・オブ・ウルトロン』の一部のシーンが既にYouTube等にアップされている通り――ハルク討伐を行うことも出来る次第です。トニー・スタークにとっての『スーツ』は目的達成の為のツールであり、動的な存在であり、取り外し可能な強靭な肉体であり、“外部デバイス”です。

一方、ジェームズ・ボンドにとっての『スーツ』は身体に接続可能な外部デバイスでは無く、完全に身体に内在化されたものと言えるでしょう。外部デバイスの例に対応させるならば、ボンドにとってのスーツは“OS”といったところでしょうか。ボンドがどれだけ激しいアクションをしても、スーツは乱れず、ボタンの糸が千切れない……というのはただのジョークでは無く、如何なる危機的状況下においても彼が冷静であることを示しています。

ジェームズ・ボンドがスーツを身に纏うのはそれが『英国紳士の誇り』であると同時に、彼がスパイであり、職務の際には匿名性の高い服を着る必要があるからでしょう。何か特別な理由が無い限り、あえて目立つ服をスパイが着る必要があるとは考えづらいものです。電車の中の、中年の男女の姿を見れば分かる通りスーツは必要以上に何かを語ることはありません。ジェームズ・ボンドはスーツを着用することにより、異国のパーティーにも違和感なく溶け込むことが出来る。

トニー・スタークが自社の秘書の白人女性と男女の関係にあることに対し、ボンド・ガールは多国籍であることも興味深い点です。やや意地の悪い見方をすれば――、トニー・スタークは『自社の秘書の白人女性』と付き合うことにより、自身の『経営者』としてのアイデンティティと『白人』としてのアイデンティティと、『男性』としてのアイデンティティを強化していると言えます。即ち、トニー・スタークの女性趣味は極めて自己愛的なものです。一方でジェームズ・ボンドの女性趣味は、――相手の女性の国籍や体型、肌の色や文化が余りに多種多様であるが故に――その遍歴を追えば追う程、逆にボンド自身の“嗜好”が霧に隠れていってしまうようなところがあります。トニー・スタークが欲望に忠実な男であるとするならば、ジェームズ・ボンドは役割に忠実である。前者が“ホット”で、後者が“クール”と位置付けられる所以をこの辺りにも見出すことが出来るかと、思います。

2015年1月31日に公開された入江悠監督の最新作『ジョーカー・ゲーム』は、“ホット”か“クール”かで言えば間違いなく“クール”な作品であり、劇中、主演の亀梨和也は殆どのシーンで時代設定が戦時中の日本であるにも関わらず、スーツを着用しています。

亀梨和也が演じる“嘉藤次郎”にとってのスーツは、ジェームズ・ボンドにとってのスーツ――自らの身体と一体化した、揺るぎ無いもの――とは全く異なります。無論、トニー・スタークにとってのスーツとも根本的に違うものです。嘉藤にとってのスーツは、上司から着用を義務付けられた制服――軍服の代用品――に過ぎません。ボンドのスーツが“揺るぎ無いもの”であるのに対し、嘉藤のスーツは言わば付け焼刃です。

物語の冒頭、嘉藤は“軍人”としての挫折を経験し、後に上司となる諜報組織『D機関』のトップである結城から『軍人としての(嘉藤の)死』を告げられ、彼は――実質的に他の選択肢が無かったこともあり――D機関に加わることとなります。嘉藤は既に一回『死』を経験しており、D機関での訓練、及び活動は彼の第二の人生の“序盤”に位置するものと言えます。嘉藤の名前が“次郎”であることは制作陣にとって、偶然ではないでしょう。人生を切り開く役割を担う長男は既に死んでおり、後に残されたのは長男を追従する次男である。スパイ・アクションを行う亀梨和也のしなやかな身体つきや身のこなしは美しいものではありますが、一方で嘉藤が作戦中に犯す、ハニー・トラップに引っ掛かるなどの数多くのミスや、迂闊な動作は目を覆いたくなるほどです。正直に言ってしまえば、嘉藤はスパイとしてプロフェッショナルとは言えないようなところがあります。

ジョーカー・ゲーム』という作品は観客に、この映画が『第二次世界大戦の敗戦国で制作されたスパイ・アクション』であることを強く意識させます。

大きな理由は嘉藤が他者に“振り回され続けている”、重厚と言うよりはやや薄っぺらな存在感を持つ人物である点にあります。

まず“嘉藤次郎”の名は、本名では有りません。

“嘉藤次郎”とは諜報作戦向けに、上司から“青年”に対して提供された偽名であり、本作のラストでは“青年”に次の作戦向けの新たな名が与えられます。ジェームズ・ボンドがスパイでありながら、(基本的に)常に相手に本名を名乗り、“ジェームズ・ボンド”ブランドに様々な功績が蓄積されていくのに対し、“嘉藤次郎”の名にはほぼ何も蓄積しません。

本作のヒロインである深田恭子演じるリンは、嘉藤を再三に渡って翻弄し、嘉藤がD機関の作戦を通じて敵から奪った、新型爆弾の製造方法が記された“ブラックノート”を狙います。リンは海外に在住する日本人であり、アメリカ大使の家でメイドをしていま――或る種の変装として――す。リンは国の大義の為に何らかの行動をすることはありません。リンは言わば“ビジネスマン”的な志向を持つ女性であり、“アメリカに行くことへの憧れ”を口にし、メイド――メイドは元来の意味での日本文化ではありません――の服装に身を包みます。嘉藤とリンは劇中、ブラックノートを巡り、激しいアクションを繰り広げます。『ジョーカー・ゲーム』が第二次世界大戦当時を舞台にした作品であることを踏まえた上で、嘉藤とリンの戦闘に目を向けると、一つの物語の中で、一度でも『同じ国籍を持つ者が戦い合うこと』はやや奇怪なことでもあります。『鬼畜米英』を徹底的に敵として描き、日本人同士は“強く団結している”とする方が、戦争に関連した物語の設定としてはシンプルではないでしょうか。『同じ日本人が団結出来ずに居ること』『同じ日本人が完全にばらばらな志向を持っていること』は、強く“敗戦の可能性を秘めた事項”だと言えるでしょう。少なくとも、一種の“戦争映画”としては。そして“ビジネスマン”であるリンに騙され、一時はブラックノートを奪われる嘉藤は劇中、明らかにスパイとして“迅速に作戦を決行し、成功させること”に失敗しています。

嘉藤次郎はD機関の指導により、『死ぬこと』と『敵を殺すこと』を許可されてはいません。故に『ジョーカー・ゲーム』において、嘉藤は敵に向けて銃を撃つことはしません。同じスパイであるジェームズ・ボンドが再三、敵と銃撃戦を繰り広げるのとは対照的です。
映画における銃を『力』『決定権』を表すものと、仮に位置付けてみましょう。ジェームズ・ボンドには『力』があり、自らが保有する『決定権』に基づき、作戦を推し進めることも撤退することも出来る。作戦上の必要があれば、敵に銃を向ける『決定権』も彼にはあります。敵のボスと対峙した時に、ジェームズ・ボンドは相手に銃弾を放つことが出来ます。即ち、ジェームズ・ボンドは物事に『決着』を付けることが出来ます。
嘉藤次郎は、物事に『決着』を付けることは出来ません。彼が物事に決着を付けることが出来るとしたら、それは所謂“映画的なご都合主義”に基づくものであり、偶発性によるものです。『死ぬ』ことも『敵を殺す』ことも出来ない“去勢されたスパイ”に出来ることは敵から物を『掠め取る』ことであり、そして追手から『ただ、逃げること』だけです。本作において彼が追手から逃れるため、商店の幕やカーテンを上手く使いながら敵の目を欺き、逃走するシーンはその事実を上手く視覚的に表しています。『自身に関する決定権』も『軍事力』も持たずに、それでいて『目的』を達成するには何をすべきか。こうした課題は戦争の勝利国では無く、敗戦国にとって切実なものです。即ち、日本にとって。本作の『戦時中』の描写には既に日本が戦争に負けたという事実が内包されており、嘉藤の振る舞いは『課題にうろたえる日本人』の姿の比喩であると位置付けられます。

ジョーカー・ゲーム』をスクリーンで観る多くの観客は、彼等、彼女等自身の運命を“より大きなもの”に振り回されています。例えば遠いアメリカの経済危機が、日本の大学生の就職活動に影響を与えたように。“より大きなもの”に振り回される人間にとって、アイアンマン・スーツは“憧れ”、“妄想”の対象に過ぎません。トニー・スタークが自身の肉体を拡張できるのは、アイアンマン・スーツが手元にあるからです。そして、多くの人間にとって――手元に“スーツ”が無い状態で――“スーツ”の形状をゼロから考案することは難しいでしょう。『身体を拡張せずに、どうやって上手く生きていくか』の方が“現実的な、生活レベルの問題”として切実だったりするのでしょう。ジェームズ・ボンドのように役割に『揺るぎ無い責任』を追うことも、簡単ではないのでしょう。その『役割』自体が、“より大きなもの”に振り回され続けており、“揺るぎ無いもの”ではないから。果たしてアイアンマン・スーツもジェームズ・ボンドのような“誇り”も持たず、『自身に関する決定権』も持たず、『軍事力』も持たずに、それでも何か“目的”を達成するにはどうすれば良いのか――。嘉藤次郎の“未完成なスパイ”の振る舞いからは、かつて戦争で負け、以後アメリカに隷属し続けて来た国の若者――観客――の『何も出来ない……けど、何かしたい……』というような思い、或いはリアリティがひしひしと面白いくらいに伝わって来ます。嘉藤次郎が対面する現実と、『ジョーカー・ゲーム』に親しむ世代の現実は相似関係にあると僕は思うのです。


アヴァンギャルド・アウトテイクス #1、如何でしたか。アヴァンギャルド・アウトテイクスでは五月の文学フリマ in 東京でお披露目予定の『アヴァンギャルドでいこう Vol.3』に先駆け、Tumblr向けの記事や写真等を発表していく予定です。

アヴァンギャルドでいこう Vol.3』は現在、編集作業中です!特集テーマは『ファンタジー』。アイドルから映画、アニメ、ファッション等々幅広いジャンルを扱う、可愛い女の子が目印の濃い冊子になりますよ。

冊子の発売までは、アヴァンギャルド・アウトテイクス、またバックナンバーをお楽しみください。

九十現音

※追記

Shiny Booksが発行するカルチャー雑誌『アヴァンギャルドでいこうvol.3』の通販が始まりました。Amazonページはこちらから。

www.amazon.co.jp