アヴァンギャルド・アウトテイクス

Shiny Booksが発行する雑誌『アヴァンギャルドでいこう』の公式ブログです。ウェブ限定記事を中心に様々なトピックを提供していくのでお楽しみに!

#13/『ゴジラ』『ゴジラ VS デストロイア』~ゴジラはK DUB SHINEでは無い~

1995年12月9日に劇場公開され、今年公開から20周年を迎える『ゴジラ VS デストロイア』は僕にとって劇場ではじめて観たゴジラ映画であるとともに、ゴジラの死を描く内容、闇夜の中で高熱に身をよじるゴジラデストロイアの造形の禍々しさと美しさ、ラスト・シーンのエネルギー……と何をとっても強烈な印象を観客にあたえる作品であり、ひいき目無し――というのは思い入れが強い分難しくもありますが、可能なかぎり他の作品とフラットに比較しても――ゴジラ映画の中でも傑作に数えるべき一作だとかんじます。


なにが印象的って、放っておいてもあとちょっとで死にそうなぐらい轟々と燃えてて、末期がん患者みたいなゴジラに更に追い打ちをかけてくるデストロイアと人間の残酷さですよ。よぼよぼのおじいちゃんを後ろから突き飛ばすみたいな感じです。

まああとにも書くように、そうはいっても人間は何もできてなくて馬鹿みたいに無力なんですけど。ゴジラの子どものシーンも悲しかった……。

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明確にゴジラの死を描く作品が、戦後50年の節目、そして阪神淡路大震災地下鉄サリン事件が発生し、日本社会の転機になった年といまでは位置づけられる1995年に公開されたというのはいまかんがえると興味深い事実です。ゴジラはおうおうにして、発展した社会の中にエア・ポケットのように存在する不安に“つけ入るように”――或いは“求められるかのように”――姿をみせる怪獣だからです。

 

ゴジラを“リセット・ツール”のような存在と、とらえてみましょう。『ゴジラ VS デストロイア』において、ゴジラは燃えています。火事な訳じゃなくて。体内炉心の核エネルギーが不安定な状態にあり、いつ核爆発がおきてもおかしくない状態にゴジラがおちいっていることが、その理由です。人類は、一度はゴジラの核爆発を未然に防ぐことに成功します。しかし、体内炉心は依然として不安定な状態にあり、ゴジラが“メルトダウン”し、地球が灼熱の星に変貌してしまう可能性が浮上します。
ゴジラを倒すことが出来る“希望”は、かつてゴジラを倒した武器『オキシジェン・デストロイヤー』の副作用によって誕生した、凶暴な怪獣『デストロイア』に託されます。人類は街で自衛隊を襲うなど、破壊のかぎりを尽くすデストロイアと、ゴジラの“一騎打ち”の状態をつくり出すことを試みます。
ゴジラ VS デストロイア』における人類は、まあ兎に角無力です。
1990年代とは『失われた10年』としばしば形容されるように、戦後の経済発展の意義が根底から問い直された時代です。

たとえば、1990年代に新興宗教や少年犯罪に関する報道が盛んになったのは“エコノミック・アニマル”と揶揄されるほど、ビジネスに打ち込み続けた日本人がそれまで社会や治安、家庭、ひいては“倫理”に向かい合ってこなかったことへの一種の自己批判のような側面があるのではないでしょうか。

ゴジラの核エネルギーが不安定な状態であり、核爆発、メルトダウンの危険が迫っている……ことは『戦後の経済発展を支えたエネルギー』が大きく揺らぎ、社会が崩壊寸前の状態にあることを意味しているように僕にはおもえてなりません。戦後、日本人が作り上げた街並みがゴジラデストロイアの一騎打ちによって蹂躙し尽くされる。その様子を人間はただ茫然と見ているしかない。


ゴジラ映画にはしばしば“怪獣たちが戦う様子を、ただ眺める無力な人間”に関する描写が登場します。自分たちが作り上げて来た街を破壊する巨大なエネルギーの衝突――ゴジラとその敵の怪獣の戦い――に、人間は介入することさえ出来ない。
ゴジラ映画においてもっとも疎外されている存在は、人間です。
そして、ゴジラの恐ろしさはその強大さや大きさ、炎の強力さにあるのではなく、浅はかで無力な人間が「対象に関与できない」ことにあるとおもいます。

*

1954年11月3日に公開され、2014年には60周年デジタル・リマスター版が劇場にて上映されたゴジラ・シリーズ第一作の名作『ゴジラ』に登場し、東京を襲うゴジラもまた当時の人々にとっての“リセット・ツール”として機能し、観客は肩を揺さぶられる感覚を得たのではないでしょうか。『ゴジラ VS デストロイア』は1954年版ゴジラを下敷きに制作された作品なので、よく似ている部分があることはあたりまえといえばあたりまえですが。

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第一作の『ゴジラ』の冒頭では、貨物船の沈没シーンが描かれます。貨物船の甲板が映るファースト・カットでは、男性が楽器を爪弾いています。
貨物船の甲板で男が楽器を弾いている……というのはよく考えてみれば、ちょっとおかしなシーンでもあります。

なんなら、ちょっときもちわるい……。

タイタニック・ミーツ・自称インディーズ・ミュージシャンみたい……。

貨物船とはあくまでビジネス目的で運行される船であり、旅行を目的とする船ではありません。豪華客船の甲板で金持ちの若い男が楽器を弾いているのなら兎も角、貨物船の甲板が“楽器を弾く場所”として選出されるのは変!やっぱり気持ち悪い!


僕はこのファースト・カットから、当時の日本人の物質的豊かさへのあこがれを読みとりたいとおもうんですね。制作陣にとっては、貨物と音楽を結びつけることはきわめてスムーズな作業であったのだろうと。なぜなら、大量の貨物は敗戦から立ち直りつつある日本人を大いに勇気づける――貧しい時代は過去になった!――ものであったに違いなく、その“喜び”は美しい音楽によって象徴的に描くことが可能だったと推測出来るからです。
余談ですが本作の冒頭にはヒロインの女性が、音楽会にむかうシーンが描かれます。ヒロイン――というもっとも美しい女性――だけを、ゴジラと言う作品のおどろおどろしさから逃がすかのように。彼女こそがゴジラの死に最も直接的に関わる人物になる、という事実は皮肉です。女性を尊重しているのか、蹂躙しているのかよく分からないっていえば分からないんですけど……笑

沈没に伴い、貨物も楽器も海の底に沈む。そうした描写は制作陣が、“貨物に抱く楽観的な未来予測”に強烈な疑いを向けているかのようです。


第一作の『ゴジラ』は貨物船の沈没に続き、事故に遭った船員の救出に向かう船の失踪、そして一名の乗組員の救出を描きます。そして、彼が『巨大な生物に襲われた』ことを口にすることで、物語が大きくうごきはじめます。巨大生物は太平洋を臨む島に昔からつたわる伝説の怪獣『ゴジラ』ではないか?と、ある老人は語ります。

ゴジラは間もなく島に上陸し、破壊活動をします。生物学者の山根博士は、ゴジラの出現について『水爆実験の影響で海底の住処を追われたゴジラが、陸上に進出したもの』と考察します。

 

本作の序盤で船の沈没が多く描かれ、また山根博士が『海の汚染』について触れることからもまた、多くのことを読み取ることが出来ます。海は観客に対し『広がり』や『恵み』、『母性』といった要素を感じさせるシンボルです。『海』は『冒険』や『旅』といったモチーフを扱うことが出来るシンボルでもあります。『ゴジラ』は船の沈没や海の汚染を描くことにより、船の進路――明るい筈の未来――に落ちる影や、母性や恵みの危機、揺らぎ、恵みを享受する人々の大きな動揺を描いていると考えます。『ゴジラ』は既に迷走していた社会の悪化を描こうとしているのではなく、『明るくなると信じられていた社会』『良くなると信じられている社会』の“当てにならなさ”のようなものや、今後の発展への疑問符を提示している。
太平洋を臨む島の住民にとって、海とは生活の基盤そのものでした。
海がダメになるっていうのは、現代に置き換えたら銀行がつぶれるとか、テレビ局がつぶれるとか、電話回線が不通になるとかYahoo!JAPANがなくなるとかそういう感じのあれなんじゃないでしょうか。もうちょっと深刻でしょうけど。兎に角、社会の前提条件に『ゴジラ』は揺らぎを与えています。

 

ゴジラ』は反核映画、ではありません。
反核メッセージを発したいなら、ゴジラの力を借りるより、K DUB SHINEの力を借りた方がたぶんいいですよ。K DUB SHINEなら街を壊すこともないでしょうし。

反核』というのは、未来に向かって放射されるメッセージです。反核は建設的と言えば、建設的な運動でもあります。

しかし、ゴジラは決して何かを建設する怪獣ではありません。ゴジラに登場する人間もまたなにかを建設しようとはせず、ただただ破壊の連鎖に加わろうとしては加わることさえ出来ず、破壊される街を眺めるだけです。人間は無力です。無力な人間の振る舞い、そして無力さを突き付けて来るゴジラに対し『反核』がどうこう……という“建設的”メッセージを読み取ること自体が、『ゴジラ』と相反するものです。
ああ、無力だなあと圧倒される。
或いはただただ映画を観て、トラウマを植え付けられる。トラウマを引き起こされる。そうした接し方こそが、ゴジラ映画の最も素晴らしい味わい方であり、良く言われる『反核映画』としてのゴジラ……というのは本当に気持ちが悪い見方だなあと思ってしまいます。

*

人間の暮らす社会を根底から揺るがし、蹂躙するゴジラが“愛されている”ことは奇妙なことでもあります。
昭和期にはゴジラを正義の味方として扱うような、ゴジラ映画も多く制作されました。ゴジラのフィギュアや人形は様々なおもちゃ会社から数えきれないほど発売されています。いつもおもうんですけど、ゴジラエッグってなんなんでしょうね。あれは何が楽しいんだ。

人はゴジラを恐れると同時に、求めている。
人類が“積み重ねている”と思っているものは、簡単に崩され得る。社会はリセットされ得る。ゴジラは人類が“目を醒ます”ことを望んでいるのかもしれません。

 

“リセット”が祝祭に感じられるときには、ゴジラは正義のヒーローとして扱われ、それが恐怖に感じられるときにはゴジラは破壊神として扱われるのだとおもいます。
新作も楽しみですね!

 

九十現音

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