アヴァンギャルド・アウトテイクス

Shiny Booksが発行する雑誌『アヴァンギャルドでいこう』の公式ブログです。ウェブ限定記事を中心に様々なトピックを提供していくのでお楽しみに!

#5/『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』~境界の消えた世界で

『逆転』とは野球においても、アメリカン・フットボールにおいても選挙の得票率においてもゲームのルールが強固なものであることが前提です。
また『逆転』とは、ゲームにおいて劣勢に陥っている主体の存在を必要としています。主体が劣勢に置かれる理由は、様々です。例えば、ゲームがスポーツであれば年齢や身体のガタは主体を不利な状況に置くには十分な理由です。

近年、『逆転』を最も魅力的に自作において描いた作家の一人が、『レスラー』、『ブラック・スワン』の監督であるダーレン・アロノフスキーです。『レスラー』と『ブラック・スワン』は逆転を扱う、一種の賭博映画です。

『レスラー』において、ランディ(ミッキー・ローク)は序盤、スーパーでアルバイトをしつつ細々とプロレスをしています。彼は元々、プロレス界のスターでした。彼は物語の中盤、一度はメジャー団体への復帰の好機を得ますが、筋肉増強剤の使用の為、心臓発作を起こし、彼はチャンスを棒に振ります。彼は一度はやけを起こし、ドラッグやセックスにのめり込みます。しかし、ランディはそうした生活を延々と送ることを――心の底から――望んでいたわけではありません。物語の終盤、彼はもう一度、リングに上がります。
『レスラー』の魅力を支えているものは、一つの構造の中での主体の浮沈であると言えます。
物語の中心には『プロレス』が強固に存在しており、中心に対するランディの位置と彼の願望、その二点を結ぶ距離の遠さによって物語のカタルシスの大きさが決定されているのです。また、その二点を結ぶこと、また点の入れ替えの困難さ――“困難である”と“信じられている”――も物語に推進力を与えています。
『レスラー』の魅力は壁の上、点から点へと飛び移るランディのジャンプ力にあります。
ただ――。あえて底意地の悪い指摘をするならば、ランディはあくまで壁の上、『移動』をしているに過ぎません。ランディは与えられた構造の中、生きている。ミッキー・ロークは革命家では無い、ということもまた『レスラー』は描いてしまっている、と僕は考えます。

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』は『逆転』に最早カタルシスを得ることが出来ない、“壁が崩壊した後の世界”を描いています。
『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』は『逆転』を描いた映画では無いのです。本作の世界にはランディは存在しません。正確に言うならば、ランディという存在を定義する前提条件であるプロレスという興業が“成立”していないのです。
Aという条件を支える、Bという基盤が崩壊したら残された条件はどうなるでしょうか。
AはAのつもりだったが、実はAが意味するところはAでは無くCだったかもしれない。

自分はレイモンド・カーヴァ―の見る目を信じ――カーヴァ―は自分の演劇を褒めてくれた――て、役者の道に進むことを決めた。しかし、レイモンド・カーヴァ―は劇作家じゃない。レイモンド・カーヴァ―は演劇を見た時、たまたま上機嫌でお世辞を振り撒いていただけなのかもしれない。
自分は演劇に命を掛けたつもりだった。しかし、劇場の控室を愛することが出来るかどうかは別問題だ。そこはただの部屋で、臭い。どうしても『其処が自分の居場所である』とは感じられない。


本作はかつてヒーロー映画『バードマン』シリーズで一世を風靡した俳優、リーガン・トムソン(マイケル・キートン)が再起を賭けブロードウェイ進出を図り、レイモンド・カーヴァ―の『愛について語るときに我々の語ること』の舞台化を行い、公演を開く姿を描いたものです。
リーガンは二十年前に『バードマン』シリーズの第四作の主演を断って以来、ヒット作に恵まれず、自身と“バードマン”を切り離すことが出来ず、苦しんでいます。
彼は自己を確立すべく、演劇に活路を見出し、友人のジェイクをプロデューサーに迎え、また薬物依存症から立ち直ったばかりの娘を付き人に起用し、舞台のプレビュー公演に臨みます。しかし、プレビュー公演はリハーサル中に役者の一名が負傷し、降板を余儀なくされ――リーガンは彼の降板を心の底では願っていました。彼の演技が余りに酷く、舞台の質を落とすものであったからです。――るなどトラブルが続きます。
負傷した役者の代わりに登板が決定したスター、マイク・シャイナーは演劇に対し、過剰なまでのリアリズム――ジンを飲むシーンでは、実際にジンを飲む。セックス・シーンでは実際にセックスをする。そうすることこそが客に感動を与えると彼は信じています――を求める男でした。リーガンはマイクの才能に惚れ込み、通常役者に払うギャラの四倍の金額を彼に払い、舞台に起用します。しかし、マイクは問題児でもありました。
リーガンは思い通りに進まないプレビュー公演にストレスを感じると同時に、自身を嘲るもう一人の自分の声に悩まされます。
マイクの言動に振り回され、プレビュー公演は散々な結果に終わり、そのまま彼等は本公演に挑みます。

演劇に出演する役者の役割とは、極めて常識的に考えるならば物語の中に観衆を引き込むことでしょう。無論、そうした役割は舞台を作る演出家、プロデューサーの役割でもあります。舞台とは、“虚構”であり“嘘”です。演劇とは役者、演出家、脚本家、プロデューサー、観衆を巻き込む嘘の共有です。
本作においてプレビュー公演が上手くいかない理由は、こうした“嘘の共有”に失敗しているから、と僕は捉えます。“嘘の共有”を阻む所作を見せるのは、マイクであり、他の誰でも無いイーガン自身でもあります。
初回のプレビュー公演の際、イーガンは舞台上でマイクがジンを飲むことを問題視し、机に置かれたボトルを水の入ったものへと差し替えます。
ボトルを差し替えられたことに気付いたマイクは、イーガンに対して激怒します。マイクにとって“酒を飲むシーン”で実際に酒を飲むことは、彼なりの役作りでもあったからです。舞台上でのイーガンとマイクの衝突を目の当たりにした、劇場の観衆は笑い声を上げます。舞台の上で描かれているものが“嘘”以外の何物でも無かった、という事実が“告発”され、その事が滑稽でさえあるからです。
上の場面において“嘘”は破壊されます。嘘が破壊された場において、後に残されるものは“現実”であり、“社会”です。本作において演劇と社会、嘘と現実は同一のキャンバスの上で混ぜ合わされ、ベタッと一体化しています。二つの差分自体が “無いも同然”なのです。
イーガンは他の場面においても、結果として“嘘”の破壊に加担してしまいます。舞台裏で愛人関係にある女優に対し、改めて関係について言及する言葉を掛ける場面は舞台に現実を流入させていると言えるでしょう。プレビュー公演中、喫煙の為、ローブ姿で外に出たイーガンが劇場から締め出され、ローブを脱ぎ捨て半裸で街を闊歩し、正面口から劇場に戻るシーンは劇場の内と外を接続してしまっていると言えるでしょう。

本作においては相反する二つの要素の差分が、“そもそも存在しない”、或るいは“かつて存在したいたかもしれない両者の区分には意味などなかった”かのように描き出されます。先に例に出した『レスラー』や『ブラック・スワン』が構造的、建築物的な映画であるとするならば『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』はより“流動的”な印象を持つ作品です。

物語が“流動的”であるとは、どのような事でしょうか。
“流動的”な物語には、強固な存在が登場しません。『レスラー』に“壁”が登場しているとするならば、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』ではその壁が完全に溶けている。壁が溶けた結果、その空間はどのように変容したか。壁の上下の行き来が非常に容易で、入れ換え可能なものと化しています。『壁の上部』と『壁の下部』の入れ替えを描くことはかつては“大きな革命”であり、観衆に大きなカタルシスを与えることが出来ました。しかし、両者の入れ換えは現代においては『日常化した小さな革命』でしかありません。壁の上部と下部は一秒ごとに呆気無く入れ換わるのです。

ジャズ・バーでイーガンとマイクが会話を交わす場面があります。マイクはブロードウェイにおける自身の実力、知名度の高さを主張し、ブロードウェイでは『バードマン』シリーズを通じたイーガンの人気は“通用しない”と言います。マイクはそれほど的外れなことを言っている訳ではありません。ブロードウェイにおける評価と映画界における評価は確かに全く別物であり、劇中に登場する批評家の言葉を追う限り、イーガンが演劇界で良い評価を得られていないことは事実です。マイクがスターであり、実力者であることは前述の通りです。しかし、ジャズ・バーで他の客から憧れの目線を向けられ、写真撮影を求められたのはマイクでは無くイーガンでした。

イーガンは『超越的であること』への憧れ、欲望を抱いていると僕は感じます。例えば、イーガンは度々“軽く手を動かしただけで、遠くの扉を開ける”といった超能力を使用します。物理法則を超えることは、超越的です。
バードマンとはその名が指す通り、鳥を模したスーパー・ヒーローです。イーガンは、自己と“バードマン”を別個の存在と捉えることが出来ません。本作にはイーガンが建物の屋上から街を見渡す場面、そして彼が空を飛ぶ場面――その場面が空想のものであるか、現実のものであるかという区別には最早“意味が無い”のです――が登場します。そして、イーガンの血を継ぐ娘のサムも度々建物の屋上から遥か下方を歩く人々を眺めます。彼女はマリファナを使用しています。イーガンはサムから没収したマリファナを、本公演を前に使用します。
物事を超越的、俯瞰的に捉える事とは物事を対象化するという事です。自分は物事の主体であると同時に小市民である。本作においては『無知な人間であること』と『スーパー・ヒーローであること』、『無名な人間であること』と『強い固有名を持つこと』、『大きな話題を呼ぶこと』と『忘却されること』に大きな違いが有りません。
本作には度々イーガンの主観を映したカット、イーガンの視点から撮影されたカットが登場します。その瞬間、イーガンと観客は同じ視野を共有します。
観客は『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』と無関係な存在であることを許されず、座席でポップコーンを食べている筈が流動化された世界へと引き摺りこまれていきます。悪夢的に。

流動的な世界における“大きな変化”とは、“流動的”なものです。
本作における“大きな変化”は、ストリート・ミュージシャンのドラム・ソロと連動する形で描かれます。例えば本作のオープニングはバスドラムハイハットの音に合わせ、画面上に文字列が表示されていくというものです。
音楽とは建築物のようにはマテリアルを持つものではありません。音楽とは“音の波”によって構成されるものであり、CDやアナログ・レコード、ドラムセット自体は音楽とはイコールでは無いからです。本作においてストリート・ミュージシャンは劇場の内外、場を問わずに出現します。彼の存在はイーガンが見た“幻想”とも考察することが可能です。アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督は流動化した世界において、懐古的にドラマーの身体性を賛美している訳では無いのです。イニャリトゥ監督はあくまでドラマーが作り出す“音の波”だけをスクリーンに映すことを試みている。イニャリトゥ監督のトライは誠実かつ、着実に効果を上げていると僕は考えます。


劇中で用いられる『スーパー・リアリズム』という言葉は、本作自身に向けられる賛美の言葉としても間違いなく、正しく機能します。『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』は小さな革命が日常化した流動的な世界を映した、傑作です。

九十現音

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