アヴァンギャルド・アウトテイクス

Shiny Booksが発行する雑誌『アヴァンギャルドでいこう』の公式ブログです。ウェブ限定記事を中心に様々なトピックを提供していくのでお楽しみに!

#6/秋が冬に恋する話~『秒速5センチメートル』と『言の葉の庭』~

朗読×劇「ほしのこえ」上演@渋谷(2015年4月23日~27日)

http://www.catmint-tai.com/

劇場用アニメーション『ほしのこえ』上映@下北沢(2015年4月18~5月1日)

http://homepage1.nifty.com/tollywood/

 

今回は、上記のイベントに勝手に便乗して、『ほしのこえ』の監督である新海誠さんの作品を取り上げます。

 

新海誠監督がロシアで高い人気を誇っているのをご存知でしょうか。たとえば5年ほど前には、ロシア人のアニメーション映画監督が新海作品にオマージュを捧げた短編フィルム『Я люблю тебя(I Love You)』をYouTubeにアップロードしています。

 


Я люблю тебя [1080p] [ENG, CHN, JAP softsub]

 

このロシアの短編アニメーションには、『秒速5センチメートル』を真似たカットやアングルがたくさん含まれています。

ところで、『秒速5センチメートル』のロシア語版DVDに封入されているブックレットのなかで、作品のキーワードが解説されています。「新幹線」や「先輩」といった日本独特の文化にたいする注釈が含まれている一方で、解説というよりむしろ解釈といったほうがよさそうな踏みこんだ説明も見受けられます。

そのような説明の対象になっているのが、貴樹の回想です。中学1年の冬、彼は小学校時代の同級生・明里の越していった岩舟を訪れたのでした。そのときのことを大人になってからふり返った彼は、雪降る夜の岩舟の情景について、こうつぶやいています。「人家の明かりはずっと遠くに疎らに見えるだけで…」。

この貴樹のモノローグにたいして、ロシア人の解説者は興味深い指摘をしています。曰く、ここには「明かり」と「遠く」という言葉があるが、それぞれ「明かり」=「篠原明里」、「遠く」=「遠野貴樹」を示唆していると。明里はまさしく貴樹にとっての明かりであり、遠野貴樹はつねにそこから遠く隔てられているという、そういう両者の性質ないし関係性を二人の名前は表しているのだと。「人家の明かりはずっと遠くに疎らに見えるだけで…」というモノローグには、実は物語のテーマが凝縮されているというのです。

たしかに、遠野貴樹ははるか遠くを見つめつづける存在です。しかもその対象は、明里=明かりに他ならないのでした。種子島に越して以来、貴樹はずっと遠くにわずかに見えるか見えないかの明かり=明里を求めて――まるで宇宙を旅する孤独なロケットのように――進みつづけることになります。けれど、それはすでに中学1年のときに彼自身が一度歩いた道のり(遠くに疎らに見える明かりへの道のり)の再現ということができます。この映画が春で始まり春で終わり円を描くように、貴樹も最初に歩んだ道をもう一度たどり直しているのです。ただただ明かり=明里を目指す道を。

登場人物の名前が彼らの関係性を暗示しているかもしれない――。この可能性を視聴者のある種の妄想として、しかし美しい妄想として引きうけ、それを別の新海作品にも当てはめてみることにします。

 

言の葉の庭』には軸となりうるテーマがいくつかありますが、今回は「問答」という観点からこの物語を再考してみようと思います。

高校教諭の雪野は新宿御苑で出会った高校生の孝雄に、別れぎわ、次のような歌を投げかけます。

 

雷神の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ

[雷が少し轟き、曇ってきて、雨でも降らないかしら。あなたを引きとめられるのに]

 

そのときの孝雄には分からないことでしたが、実はこの歌は二首で一対となる歌の前半部で、これには次のような歌がつづくはずでした。

 

雷神の 少し響みて 降らずとも われは留らむ 妹し留めば

[雷が少し轟き、雨が降らなくても、私は留まりますよ。あなたが引きとめて下されば]

 

これらは万葉集のなかの「問答」というセクションに属する歌で、「雨が降ったらあなたを引きとめられるのに」という呼びかけにたいして、「雨が降らなくても私はとどまりますよ、あなたが引きとめて下されば」と答えています。すなわち、歌で恋の問答=対話(ダイアローグ)をしているわけです。

しかし、はじめ孝雄には歌の意味が分からず、雪野の発したメッセージにふさわしい返答をすることができませんでした。彼女の言葉は一方通行のまま、いわばモノローグ(独白)として、宙ぶらりんになってしまいます。

ところが、やがて孝雄はこの歌の意味を知り、雪野にきちんと歌を返します。そして彼はついにこう自分の気持ちを告げるのです。「雪野さんが好きなんだと思う」と。けれど彼女はこのメッセージをはぐらかしてしまう。それとなく拒絶して、せっかく成立しかけたダイアローグを打ちきってしまう。こうして、今度は孝雄のメッセージがモノローグのように宙に浮いてしまいます。

そもそも孝雄という少年は非常に真っ直ぐな性格の持ち主で、「二つのものに憧れて」いました。靴作りの職人になること、そして雪野。彼は自分の世界をもっていて、ただひたすら前だけを向いて、はるか遠くにあるものに手を伸ばしつづけていました。彼の性格を鑑みれば、雪野に正面切って告白するのも自然なことだったかもしれません。しかし、ある観点から見ると、これは天地のひっくり返るような決断であったはずなのです。そしてまた、拒絶されるのも自然なことだったのです。

秋月孝雄と雪野由香里。二人の名字には季節を表す漢字が入っています。「秋」と「雪」。雪は冬の季語ですから、二人の名前には秋と冬を意味する文字が入っていることになります。ここには何らかの象徴がこめられているのではないか? 先のロシア人にならって、そう考えてみましょう。

結論からいえば、『言の葉の庭』というのは、「秋」が「冬」を追いもとめる話だとみなすことができます。秋は冬の直前にあるものの、決して追いこしてしまうことができません。いつか手が届きそうなのに、抱きすくめてしまえそうなのに、でも一つになることはできません。もちろん「秋」は孝雄です。「冬」は雪野であり、また靴作りの職人になる夢でもあります。「秋」は「冬」に恋い焦がれ、追いかけ、求めつづけているけれども、しかしそれはいくら手を伸ばしても届かない存在なのです。永遠の憧れ。

秋が冬に追いつくということ、異なる季節が交わるということは、自然の摂理を破壊することにほかなりません。同様に、高校教諭である雪野にとって、高校1年生が教師に恋心を打ち明け、それが成就してしまうことは、社会常識の破壊であり、許されない行為なのでした。だから理性を働かせて、この告白を拒絶します。なかったことにします。ところが孝雄が去ったのち、雪野の脳裏をめぐったのは、あの歌。

 

雷神の 少し響みて 降らずとも われは留らむ 妹し留めば

 

孝雄の言葉にたいして、今度は自分がそれに応える番であることを悟った雪野は階段を駆けおり、孝雄の熱量こもった荒々しいメッセージを受けとめ、彼を抱擁してこう叫びます。「あなたに救われてたの」。

このとき、『言の葉の庭』に問答=ダイアローグという新しい摂理が胎動しはじめるのです。

『新作アニメーション「言の葉の庭」によせて、思うこと』(http://shinkaimakoto.jp/kotonoha)を記した新海誠によれば、万葉の時代、「「恋」は「孤悲」と書いた」そうです。「愛に至る以前の、孤独に誰かを希求するしかない感情」が「孤悲」であるならば、「孤悲」とは成就した瞬間に霧消してしまう宿命にあるといえるでしょう。なぜなら「希求」という一方通行状態が「孤悲」なのであり、その「希求」が実現され交感が生まれれば、「孤悲」する状態も解消されてしまうからです。この「孤悲」は、「秋」が「冬」に焦がれるのに似ています。秋はつねに冬を追うものだからであり、追いついてしまえば、それは季節の概念を超出してしまうからです。

一方的なモノローグが双方向的なダイアローグに変わるという『言の葉の庭』の構成のうちに――降る新宿御苑月孝雄が野の手紙を読む光景に――「孤悲」から変貌した新たな生命が息づいています。

孤独のなか、星のように手の届かない何かを必死に希求する少年少女たちを、「秋が冬に恋する話」をひたすら描いてきた新海作品に、対話の可能性が萌したのです。


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