アヴァンギャルド・アウトテイクス

Shiny Booksが発行する雑誌『アヴァンギャルドでいこう』の公式ブログです。ウェブ限定記事を中心に様々なトピックを提供していくのでお楽しみに!

#2/『幕が上がる』~少女、或いは“物語”への徹底的な肯定

“観察映画”という独自のジャンルで知られる想田和弘監督の最も興味深いドキュメンタリー作品の一つに、劇作家・平田オリザを取り上げた『演劇』を挙げることが出来ます。僕は合計五時間以上に渡る、前篇と後篇から構成される『演劇』を学生時代に渋谷の映画館で観たのですが、幾度となく撮影される稽古場での台詞の復唱、芝居の繰り返しと、後篇で取り上げられるロボットを人間の代わりに役者に仕立て上げる“ロボット演劇”のシーンは印象的なものでした。

“観察映画”はその成り立ちに一種の“不可能性”が内包されています。
何故ならば、対象者にカメラが向けられた時点で対象者の振る舞いには“映像作品の一つ”という意味合いが発生してしまうからです。

想田監督はそうした“不可能性”を何とかクリアするために涙ぐましい努力を行い、結果として“観察映画”の第一弾である『選挙』では大きな成果を挙げました。しかし、政治関係の人物よりもより“カメラ”に対して意識的な振る舞いを行う役者、そして劇作家に焦点を合わせた『演劇』からは、“観察映画”である以上に“何処までも徹底的にリアルな虚構”を映した作品というような手触りが感じられます。

『演劇』は“現実”を映している筈なのに、完成品は“虚実入り混じる作品”であるかのようにさえ思えてしまうのです。
例えば、『演劇1』のラスト・シーンは劇団の所属俳優の六十歳の誕生日の、サプライズ・パーティーの映像で締め括られます。サプライズ・パーティーは平田オリザの機転により“稽古の延長上”において、開催されます。その一連の映像は本来、微笑ましいものであるにも関わらず、所属俳優の人生が演劇の中に“回収され切ってしまっている”ようにも見え、非常に強い不穏さを宿しています。“演劇の中に回収され切った存在”は、『演劇2』に形を変えて登場します。それが平田オリザが取り組む“ロボット演劇”であり、役者としてのロボットです。

ロボットの行動は、“外圧”によって支えられているもの、と位置付けることが可能です。一見、自律的に判断し、部屋の中を駆け回るように見えるペット・ロボットに実は高度なセンサーが搭載されていることは自明です。ペット・ロボットの行動は『こうしたい!』という強い欲求に支えられている訳では無く、部屋の中の障害物と自身の距離感によって決定されている。即ち、行動を決定しているもの――“圧”を発しているもの――はロボット自身では無く、部屋の中の障害物である。ロボットとは、『与えられた役割』に応答を返すものと言い換えることも出来るでしょう。


2015年2月28日に公開された本広克行監督の映画『幕が上がる』には、『演劇』と幾つかの共通点があると僕は考えています。

まずどちらの作品にも平田オリザが関係しています。

『幕が上がる』の原作は平田オリザが執筆した小説であり、劇中には彼の劇団の劇場が登場し、平田オリザの人形もカメオ的に映像に映り込みます。後者については、前述の通りです。

『幕が上がる』と『演劇』は、どちらも“虚実入り混じる作品”です。後者は“虚”を生業とする役者を観察することにより、“何処までも徹底的にリアルな虚構”を映像上、作り出しています。『幕が上がる』は平田オリザによる小説を下敷きに、映画『桐島、部活やめるってよ』の脚本を担当した喜安浩平が書いた台本を用いて撮影された“虚構”です。

しかし、“虚構”には主演を務めるももいろクローバーZの五人が置かれている“現実”や活動の歴史、彼女たちの性格、イメージ、楽曲がふんだんに投入されており、作品は一種のメタフィクションとして“観察”することが可能な仕上がりでもあります。“虚構”に大量のリアルが投下されることにより、両者の境目が“やや曖昧になった状態”が生まれている。『幕が上がる』を実写化するにあたり、ももいろクローバーZを全員キャストした本広克行監督及び制作陣の決断には、大きな賞賛が与えられるべきだろうなと思います。

本作はももいろクローバーZの“赤”、百田夏菜子演じるさおりが地区予選で敗退し、先輩が引退した演劇部の部長の役目を、玉井詩織演じるユッコ、高城れに演じるがるるから“与えられる”ところから物語が始まります。

物語の序盤で描かれるさおりと、さおりが尊敬する“元部長”である“先輩”の海辺での写真撮影――“先輩”は卒業後も演劇を続けていく決意を固め、その決意を形に残すためさおりに自身の写真を撮るように依頼します――と会話は本作の一つのハイライトです。先輩はさおりに対し、自身とさおりがとても良く似ていることを告げます。さおりはカメラのファインダー越しに、先輩の姿を見つめます。 “良く似ている人間”をカメラ越しに観察することは、鏡で自分の姿を見ることと通じます。この場面が表していることは、二つあります。まず一つは、カメラのファインダー越しに先輩を見ることによりさおりは自身の近い未来を垣間見た、ということです。さおりが先輩の後を追うように演劇にのめり込んでいくことは、この場面から容易に想像出来ます。もう一つは、演劇部における先輩の役割がさおりに明確に移譲されたということです。

そうして部長に就任し、役割の大きさに戸惑うさおりの前に、新しく彼女が通う富士ヶ丘高校にやって来た、黒木華演じる吉岡先生が姿を見せます。学生時代、“学生演劇の女王”として有名だった吉岡先生は演劇部に的確な指導を与えていきます。吉岡先生は“先輩”と並びさおりのもう一つの憧れとして物語上、機能します。やがて、演劇部において吉岡先生が担う指導役としての役割もまた、さおりの元へと移譲されていきます。本作の大きなテーマには、こうした『役割の移譲』と『それを受け入れていくこと』が挙げられます。

移譲される役割とは、既に存在するものであることが『幕が上がる』の大きなポイントであると、僕は考えます。さおりが所属する演劇部は、さおりが入部する以前から存在したものです。演劇部の部長とは以前から存在するポジションであり、指導役の役割はさおりが確立したものでは無く、吉岡先生が確立したものです。

本作におけるさおりの行動、振る舞いがもし観客の目にダイナミックに映るなら、それは“役割”を引き受けることにその観客が大きな意味合い、一種のプレッシャーを感じているからでしょう。


『幕が上がる』は、フジテレビ制作による青春映画という側面を持ち合わせています。フジテレビ制作による青春映画には『がんばっていきまっしょい』、『ウォーターボーイズ』といった傑作映画が存在します。そして、個人的には『幕が上がる』を、上の二作の系譜に位置付けることは難しいと思っています。

がんばっていきまっしょい』と『ウォーターボーイズ』には、それぞれ『男性しか居ないボート部に女性が入部し、“女子ボート部”という新たな試みを実施していくこと』、『シンクロナイズドスイミングを男性が行うこと』という選択の異常性が存在しています。

例えば『がんばっていきまっしょい』には冒頭、荒廃したボート部の部室と残されたかつての主人公たちの写真が映されます。『がんばっていきまっしょい』は荒廃した部室と写真、かつての部員の活躍――彼女たちがボートを漕ぐ姿はとても美しいものです――を一作の中で描くことで、通常ならば到底考えられないような『異常な選択』が選択者に与える痛みと、選択が社会に“痕跡”を残すことが可能であることを同時に表現しています。選択は決して、無駄では無い。

『幕が上がる』には、選択の異常性が存在しません。さおりは自身の憧れの人の歩んだ道を追従し、周りの人間はその事をひたすら祝福します。吉岡先生がさおりの記した脚本に厳しい非難を浴びせるシーンは、劇中には在りません。さおりの両親は、彼女が演劇に興じることに全く否定的な感情を持っていません。さおりに恋心を持ち、迫る異性も本作には登場しません。それどころか、富士ヶ丘高校は共学の学校であるにも関わらず演劇部は女子のみで構成されており、劇中で恋愛や性に関する話題は所謂“百合的”なサービス・カットを除けば、登場しないと言っても過言ではありません。百田夏菜子をたぶらかすような男子は、誰一人この高校には居ないのです。

『幕が上がる』には何一つ、他者性が無く、さおりが願ったことは次々実現されていく、やや幼稚なユートピア的空間が出現しているとさえ言えます。ユートピアを“現実”に変換する通過儀礼も、通過儀礼として効果的に機能しているとは言えないと感じます。物語の終盤に差し掛かり、描かれる吉岡先生に関する“ある出来事”も、その出来事を経た後も吉岡先生が演劇から離れないことにより、さおりの“憧れ”に大してブレが無く、大きな儀礼として扱い辛いようなところがあります。あくまで役割の移譲を、一段前に進めるための要素としてのみ機能している、と僕は考えます。

物語の途中で吉岡先生が妊娠し、演劇を止めざるを得ない状況に肉体的にも経済的にも社会的にも追い込まれる。或いは吉岡先生が死ぬ。それくらいの衝撃は本来、この作品にあってしかるべきでは無いでしょうか。


本作のラストシーンには、ももいろクローバーZの『走れ!』という曲がバックで流されます。

『走れ!』は正直に言えば、本来なら『幕が上がる』のラストに掛かる曲として、あまり相応しくない。場面において取り上げられる題材と曲調が全くマッチしていないからです。仮に本作の主演が剛力彩芽武井咲前田敦子だったら。それでもこの場面が何とか成立しているのは、画面の中に居るのが富士ヶ丘高校の演劇部であると同時に、ももいろクローバーZのメンバーそのものだからです。

教員役として本作に度々カメオ出演するフジテレビのアナウンサーは、ももいろクローバーZのオフィシャル・アイテムを身に着けています『幕が上がる』は“さおりらの行動に対する無批判性”と、“ももいろクローバーZの状況、人気”を作品に投下することで、登場人物と役者を二重の意味で兎に角ひたすら徹底的に肯定しています。本作の製作陣はももいろクローバーZのメンバーが“外圧”に無邪気に対応していくことを全面的に良し――たとえそれが“ロミオとジュリエット”や“銀河鉄道の夜”のように使い古された物語であろうと、物語は素晴らしい――とし、その過程で本来生じるであろう痛みや課題は視界から意識的に除去している。

『幕が上がる』はももいろクローバーZのメンバー、及びそのファンに対して過剰にセンチメンタルな、甘いメッセージのみを投げ掛けている。さおりとしても、ももいろクローバーZの“赤”としてもスクリーンの中で使い古された物語に回収され切っている百田夏菜子の姿、或いは玉井詩織らの顔付きには、不穏さが内包されているような気がしてなりません。その“不穏さ”はもしかしたら監督を始めとする作り手にとって意図せず、映像に生じているものなのかもしれません。

九十現音

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