アヴァンギャルド・アウトテイクス

Shiny Booksが発行する雑誌『アヴァンギャルドでいこう』の公式ブログです。ウェブ限定記事を中心に様々なトピックを提供していくのでお楽しみに!

#17/神聖かまってちゃん…<一つの時代の終わり>

 神聖かまってちゃんのロックンロールはもはや「鳴り止み」始めている。僕個人はこれまで、神聖かまってちゃんから受けた影響があまりにも大きいために、神聖かまってちゃんに対しては褒める事しかしてこなかった。何故なら、その他にあまりにも愚劣なものが多すぎるからである。ほとんどのものが言及する気もおきないどうでもいいものに思われてしかたないために、僕はそれらには言及してこなかった。しかし、神聖かまってちゃんに関しては言及する価値があるので、これまでずいぶん言及してきた。それも、できるだけ肯定的なやり方で。
 
 しかし、今や、神聖かまってちゃんのロックンロールは鳴り止み始めているように見える。これはニコニコのブロマガで「ともなりたかひろ」という人物が書いていた事だが、今の神聖かまってちゃん、「の子」の音楽は明らかに自己模倣に陥っている。実際、ともなりたかひろという人の言う事は正しく、の子はかつての自分をもう一度焼き直し、過去のシャウトを再び現前しようとしているが、しかしそれはうまくいかない。青春は終わった。玻璃の目は溶けたのである。
 
 もはや過去のシャウトは戻ってこない。それは遠くで、過去のこだまのように虚しく鳴っているだけだ。何故、そんな風になってしまったのか? 答えは簡単である。ぺんてるという曲にこんな歌詞がある。
 
  風に吹かれてしまう
  落ち葉のようになれ果てよう
  考えて生きてくような価値なんてどこにあるんだと僕は思うのです
 
 かつてのの子の叫びは本物だった。真実だった。しかし、そこにはある基盤があった。つまり、何もない人間が徒手空拳でこの世界に立ち向かうというスタイルである。この世界において、この何もない世界において、僕たちはこれまで、自分達が何者でもないという事を頑として認めようとはしなかった。この馬鹿馬鹿しい社会において、誰しもが、自分が何者かであると、ネットで、公道で、主張し続けていた。しかし、そこに「の子」という一人の野蛮児が現れた。そしてこの人物は突然、人通りの真ん中で、ネットの真ん中で、次のように叫び始めたのである。
 
 「自分は何者でもない。しかし、それの何が悪いのだ! 僕はそこに居直ってやる!」
 
 誰しもが、未だにアイデンティティの「かす」にしがみついている。誰しもが、何もない自分を恐れ、何とか自分に箔をつけようともがいている。その時である。この狂人の叫びが響いたのは。彼は、自分がもはや何者でもなく、人間でもない事を率先して認め、そしてそれをむしろ、自らの武器としたのである。この点において、神聖かまってちゃん、そしての子という人物の決定的な意義がある。インテリ共がわかった面をして饒舌でごまかしつつ、大衆は自分達の幻想を受け入れてくれる容器を探して往来をうろつきまわっている。欲望と、それを与える者との間で貨幣の交換が行われ、そこにはわずかの人生哲学も真実もなかった。そこにあるのはただふやけて、ぼやけきった人生を送りたいという人々の茫洋とした意思だけだった。そこにこの狂人が現れ、全てを断ち切ったのである。つまり、神聖かまってちゃんは僕たちの世代にとって、一つの切断線として現れたのである。しかし、それももう過去の事である。
 
 しかし、今や神聖かまってちゃんのロックンロールは鳴り止もうとしている。最近の神聖かまってちゃんの動向を見ても、それが感じられる。神聖かまってちゃんもメジャーバンドになり、それなりにファンがつき、安定したスタイルを持つようになった。安定した環境の中にいられるようになった。そこはぬるま湯なのだが、このバンドほどぬるま湯が似つかわしくないバンドは他にないだろう。これほどまでの天邪鬼、世界に対して逆転した態度を持ったバンドにも、フォロワーがつき、ある程度は社会に受け入れられた。したがって、今の環境でかつてのシャウトをしようとしても、それは嘘になるのだ。今は、もうすでに何者かになっているのである。もう既に、持たざる者ではなく、持つ者に変わってしまっているのである。かつての、徒手空拳で世界に立ち向かうスタイルはもう使えないのである。使おうとしても、の子という人物は既に世界の側に同化しているのである。したがって、この点でロックは鳴り止むのである。これが現在の神聖かまってちゃんの問題点である。
 
 …僕は神聖かまってちゃんというバンドを極めて高く評価しているし、その事に変わりはない。他のバンドでは、今あげたような問題「すら」、ほとんど全く起こっていない。本当の意味で失敗ができるのは、本当の意味で才能のある者だけなのだ。力がない者は失敗する事すらできない。彼らはただ迎合したり、しなかったり、ふくれて愚痴を言ったりするだけの事である。最初に意図があって、それが現実とはげしく摩擦を起こす事によって、この者は挫折し、失敗する。ここに悲劇が現れるのだが、大抵の人間は、「好きな事をして楽して生きたい」程度の低い意図しかないから、失敗すら起きないのだ。まあ、僕も楽して生きたいとは常々思っているのだが。
 
 とにかく、こうして、今の神聖かまってちゃんは鳴り止んでしまった状態にある。今のの子は音楽的には洗練され始めているし、最近では、プロの映画監督に撮ってもらった新しいPVなどもある。有名人をPVに起用したりもしている。
 
 しかし、それらのPVを見ても、僕には全然ぴんと来ない。…残念ながら、の子という人物がまだ何者でもない時に、父親と二人で取った手製のPV、音質は悪いが呪いが込められた初期の楽曲、それらに、最近のPVは全く勝てていないのである。いかにプロの監督、モデル、タレント、機材を使っても、初期のの子が持っていた神性ははや失われてしまったのである。例えば、「二十三歳の夏休み」などはのの子の楽曲の方でも、そう大した曲というわけではない。しかし、そうした曲でさえも、あの時のの子はキラキラと光っていた。他人から見れば、何者でもなく、ただ手ぶらのニートフリーターでしかない。しかし、それ故に、それに対するバネが、それに対する怒りが、憤激が、世界に対する叫びが、の子の背中に羽根を生やしていたのである。かつて、の子はその羽根で「ある空間」の中を自在に舞えた。しかし、今や羽根はもがれた。ロックンロールは鳴り止んだのである。青春は、消えたのだ。
 
 こうしておそらく、神聖かまってちゃんという一つの時代は終わったのだ。おそらく、神聖かまってちゃんがもう一度、生まれ変わるには、過去の叫びとは違う哲学が必要となるだろう。そしてそれを、の子が断行できるかどうかは未知である。しかし、僕のような神聖かまってちゃんフォロワーも、もはやの子の影響から脱して自分自身の道を進まなくてはならないのだろう。人は、過去の己を断ち切る事によって前へ進むのである。そう、それは「いつの時代でも」そうなのだ。
 
ヤマダヒフミ

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