アヴァンギャルド・アウトテイクス

Shiny Booksが発行する雑誌『アヴァンギャルドでいこう』の公式ブログです。ウェブ限定記事を中心に様々なトピックを提供していくのでお楽しみに!

#15/カフカの独楽、あるいは原型のアレゴリー(1)~『ドストエフスキーと愛に生きる』~

 ヴァディム・イェンドレイコ監督の映画『ドストエフスキーと愛に生きる』が東京で公開されたのは、2014年2月22日。ところが日本語字幕版DVDやBlu-rayなどは、2015年6月現在、販売されていません。しかし、スヴェトラーナ・ガイヤーという偉大な翻訳者の生活風景を捉えたこのフィルムは、より多くの人たちに繰り返し鑑賞されるべき類稀な作品であり、近い将来のパッケージ化への期待を込めて、このたび記事を書かせていただきます。
 公式HPには、次のようにこの映画が紹介されています。

 

 84歳の翻訳家スヴェトラーナ・ガイヤーが織り成す深く静かな言語の世界と、紡がれる美しい言葉たち――。ドストエフスキー文学と共に歩んだ一人の女性の数奇な半生を追ったドキュメンタリー

映画『ドストエフスキーと愛に生きる』公式サイト

 

 スヴェトラーナ・ガイヤーは1923年にウクライナで生まれましたが、のちにドイツへ渡り、そこで自身が「五頭の象」と呼ぶドストエフスキーの五大長編『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』をロシア語からドイツ語に翻訳しました。
 しかしながら、『ドストエフスキーと愛に生きる』は彼女の翻訳の営為にのみ焦点を合わせた映画ではありません。これが切り出してゆくのは、学生相手の講義や自宅での料理作りといった、日々の生活風景です。彼女が故郷ウクライナの地を半世紀ぶりに訪れるというような、その生涯において重大な意味を持っているはずの出来事さえ、この映画は殊更に劇的なシーンにせず、カメラは静かに淡々と彼女のゆっくりとした足取りを追いかけるだけです。
ドストエフスキーと愛に生きる』が映しているのは誰かの物語というより、人間の持ちうる途方もなく深遠な智慧です。スヴェトラーナ・ガイヤーという一人の翻訳家に世界の叡智が宿り仄かに輝いている様を見せているのです。
 このような偉大な人間を撮影したドキュメンタリーには、作為的な演出や大きな起伏は不要です。彼女の生活の小さな一隅さえ数多の優れた小説や映画と構造を同じくし、それらの物語の示唆するものをより鮮烈に浮かび上がらせているからです。その手に触れるもの全てを金に変えたミダス王のように、彼女は見るもの全てを透視し、その本質を洞察し、言い当てることができるのです。
 彼女は教会の内部を観察しながら小説の結構を語り、たまねぎの皮を剥きながら人生の意義を述べ、魚の童話について話しながら人間の内なる意志を説きます。人は一生に一度魚の声を聞くのであり、たとえその声が世間の多数派によって当然と思われているようなことに反していたとしても、その魚の声=自分の内なる声にしたがうべきなのだ、と。
 この映画は一個の人間が世界の理に肉薄していった記録なのです。

 

 冒頭、彼女はドイツ語でロシアの詩を朗読しています。全篇をここに訳出します。

 

 なあ友よ、お前には見えないのかい、

 我々には見えるもの全てが――

 目に見えないものの

 ただの反射、ただの影に過ぎないというのが?

 

 なあ友よ、お前には聞こえないのかい、

 バタバタ騒がしい生活音が――

 楽しげなハーモニーの

 歪められたただの反響に過ぎないというのが?

 

 なあ友よ、お前には感知できないのかい、

 全世界にあるのはたった一つ――

 挨拶のとき何も言わずに

 ただ心が心に語りかけることだというのが?

 

 これはロシアの著名な哲学者・詩人であったソロヴィヨフの詩(1892年)です。彼の哲学や詩はシンボリスト(象徴派)たちに強い影響を与えたと言われています。実際、いま訳出した詩の中で表出されているのは、地上にあるものは何か「目に見えないもの」の反映、影に過ぎないという象徴主義的な考え方です。大いなる真実はここではないどこかにあり、ここにあるのはその反射や反響に過ぎないというのです。もちろん、この思想的背景にはプラトンイデア論があります。まずイデアの世界があり、私たちの世界で起きている現象はそのイデアの影に過ぎないという思想です。シンボリストたちは自身の創作の中で、このような目に見えない関係性をまるで魔術師のように暴こうとしました。
ドストエフスキーと愛に生きる』は決して象徴主義的な映画ではありません。日常的な生活が何か「目に見えないもの」の影であると主張しているわけではありません。そうではなく、生活の些事の中に世界の理とでも言うほかないような真実が宿っていることを示唆してくれているのです。つまり、この表層的な世界に奥行きがあることを示し、潜り、その暗がりを照らしてくれているのです。そういう文脈でソロヴィヨフの詩を読み直しているのでしょう。
 普段目にするような些細なものに世界の真相が隠されているという考え方を、ここで仮に「原型のアレゴリー」と呼んでおきます。
 小説などを読んで、それを世間に生じている事件等への仄めかし、暗示、寓喩(アレゴリー)と受け取る読者はどこにでもいるもので、それは結局のところ他者の物語を自己の物語に変換している(適用している)のだと思われますが、「原型のアレゴリー」はそのような変換とは一線を画します。ある亡霊と別の亡霊との類似を指摘するこうした解釈ではなく、「原型のアレゴリー」は乱舞する亡霊にその本体の記憶と身体を洞察するのです。
 そのような「原型のアレゴリー」を体現しているのが、カフカの短編小説『独楽』です。哲学者が独楽の回転という「ささやかなもの」の中に「大いなるもの」を認識しようと苦心する物語です。この短編では、そのような行為は滑稽なものとして語られているようにも見え、カフカ自身の狙いは定かではありませんが、しかし「カフカの独楽」は「原型のアレゴリー」のメタファーとみなしてよいでしょう。
 およそ思想とは、著名な誰かの書物の中にのみあるとは限らず、たまねぎの皮の中に、昔からあるおとぎ話の中にも潜在しており、そこでひっそりと眠りながら、賢明な人に見つけられるのを待っています。たぶん、私たちがいつも使っている歯ブラシや、木の葉を弾く雨粒の音や、書棚に降り積もった埃の匂いの中にさえ、世界の理は秘められているはずです。偉大な思想家は必ずしも書物の中から哲学を学ぶのではなく、例えば西瓜を育てながら、稲に水を遣りながら、哲学を耕すことができるのです。
 察するに、スヴェトラーナ・ガイヤーはドストエフスキーのテクストというテクスチャー(織物)を丹念に解き且つ編む作業を通して、世界を認識する術を身に付けたのではないでしょうか。彼女はドストエフスキーのテクストを読む営みを「宝探し」に喩えていますが、事物に秘められた「宝」に至るまで地中を掘り進め、この世界の奥行きを広げています。

 

 背中を丸めながら、つつましく生活し、懸命に翻訳に打ち込んでいた彼女は、ドイツで映画が公開された翌2010年に、87歳で天に召されました。「天に召された」という言い回しがこれほど相応しい人を、私は他に知りません。

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