アヴァンギャルド・アウトテイクス

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#16/カフカの独楽、あるいは原型のアレゴリー(2) ~『戦場でワルツを』~

 アリ・フォルマン監督『戦場でワルツを』(2008年)は、20年前のレバノンでの戦争の記憶、しかもある一日だけの記憶がすっぽりと抜け落ちている映画監督のアリが、その「失われた時を求めて」旅をする物語です。
 いわゆるドキュメンタリー・アニメーションというジャンルを代表する作品であり、そのアニメーション映像は実写で撮影された映像を加工して作られています。
 題材や性質から言ってそのまま実写でもよかったはずの映画がなぜアニメーション作品として制作されなければならなかったのか、誰もが抱くはずのその疑問への答えは、映画のラストで示されます。
 そこで映し出されるのは、死屍累々たる凄惨な光景。注目すべきは、この最後の映像だけ実写に切り替わっていることです。
 このとき浮き彫りにされるのがアニメーションと実写という二つの手法の対置です。死という現実、虐殺や戦争という恐ろしい現実をありのままに提示した実写という手法は、それまでの80分間のアニメーション・パートを自らの引き立て役として利用しているようにも見えます。地に倒れ伏した数々の遺体の実写映像が、それまでのアニメーション映像をあらゆる意味で遥かに凌いでいたのは紛れようもない事実であり、その衝迫度はまさにそのアニメーション映像によってかえって強められてさえいるのです。 
 では、実写こそが厳しい現実を最も的確に表現できる手法であり、アニメーションはそれに不向きな手法なのでしょうか。
 この問いは、19世紀に写真が登場したときに立てられた「写真と絵画はどちらの方が正しく対象を表現できるか」という問いと恐らく同種のものです。今では逆だと思う方が多いかもしれませんが、当初写真は絵画よりも「不自然」と考えられていました。絵画の方が対象を正しく描けているとみなす人が多かったのです。熟練の画家の筆さばきは目の前の人間の外面だけでなく、その内面まで写し取ることができるのだと。そのことを示す興味深い例が、前回「カフカの独楽、あるいは原型のアレゴリー(1)」で話題に挙げたドストエフスキーの「五頭の象」の一つ『未成年』の中にあります。

 

写真というものはごくまれにしか似ないものだ。(…)ごくまれに人間の顔は自分の主要な特徴、つまり自分のもっとも特徴的な思想を表現する瞬間があるものだ。画家というものは顔を研究して、その顔の主要な思想というものを把握する、だから、描いているときに、それがまったく顔にあらわれていなくたって、ちゃんと描けるのだよ。ところが写真というものは人間をそのときそのときのあるがままにとらえる、だからナポレオンが、ある写真では、薄のろみたいにうつったり、ビスマルクが――柔和な顔になったりということがありうるのだよ。

ドストエフスキー『未成年』下、工藤精一郎訳、新潮文庫

 

 現代では写真機の性能も写真家の技術も飛躍的に向上しているので、『未成年』で言われていることがそのまま当てはまるわけではありません。むしろ大事なのは、(写真と違って)絵画が「人間をそのときそのときのあるがままにとらえる」芸術ではないと前提されている点です。それはその人の「もっとも特徴的な思想」や「主要な思想」を表現するのです。
 再び実写とアニメーションの関係について話題を戻せば、「動く絵」であるアニメーションもやはり対象を「あるがままにとらえる」よりも、その「主要な思想」を表現するのに長けた手法なのではないでしょうか。
 すなわち、『戦場でワルツを』においては、戦争という厳然たる現実を「あるがままに」提示しようとしたため、採用する手段がアニメーションから実写へと切り替わったのです。表現する対象と表現方法との適切な関係を冷静に見極めた末の監督の判断でしょう。
 しかし、実写パートは成功していると言えたとしても、アニメーション・パートも成功していると果たして言いうるでしょうか。それは「主要な思想」を描けていたでしょうか。アニメーション・パートが最後の実写映像の引き立て役に終始していると感じてしまった最大の要因は、まさにこの点、それが「主要な思想」を描き得ていなかったという点にこそあると思っています。
カフカの独楽、あるいは原型のアレゴリー(1)」で用いた表現を繰り返すなら、アニメーション・パートは「世界の理とでも言うほかないような真実」「世界の真相」を描き得ていなかった、ただ最後の「そのときそのときのあるがまま」の光景を写し取るのに加担しただけだったと思えてしまうのです。
 真実や真相といったものは、ありのままの形では認知できません。それはたとえ話や虚構の中に寓喩的に(アレゴリカルに)立ち現れます。直接その真実に至る道はなく、別の「物語」に置き換えてゆきながら接近するしかないのです。遠ざかるように見えて、その実近づいている様子は、生きているように見えながら実は死に向かっている人間の逆説的なあり方とも似通っています。
 このような間接的・比喩的なアプローチに長けているのが絵画やアニメーションといった表現手段です。それは現実の対象を「あるがまま」に写し取ることができない、常に間接的で、曖昧で、迂遠な、ヴェールをまとった芸術なのです。
 『戦場でワルツを』は、この二つの原理――実写の直接性とアニメーションの間接性――のうち、一方しか活用できなかったとみなすことができます。
 アニメーション研究者の土居伸彰氏によれば、若きアニメーション監督デイヴィッド・オライリーが2009年暮れに行った講演で、『戦場でワルツを』を批判して次のように語ったと言います。「制作者たちは実写を用いないとドラマチックなものは作りえないと思っている。アニメーションの力を信じていない」と。

http://animationscc.blog105.fc2.com/blog-entry-355.html

 実写パートの成功とアニメーション・パートの不成功。確かに後者は前者をより衝撃的に見せることに寄与しており、結果的に『戦場でワルツを』という映画は全体として見事な出来になっていますが、実写が映すのとは別のレベルの真実、迂回しながらでなければ到達しえない類の真実をアニメーションが捉えることはなかったのです。

 
 来る6月20日、SF界の巨人スタニスワフ・レムの小説『泰平ヨンの未来学会議』を原作とする映画『コングレス未来学会議』が全国で公開されます。監督はアリ・フォルマン。そう、『戦場でワルツを』の監督です。
 『コングレス未来学会議』においても実写とアニメーション双方が用いられるようなので、『戦場でワルツを』を上回る傑作を期待しています。

映画『コングレス未来学会議』公式サイト

www.youtube.com

 

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