#14/「相対性理論」論
今、現在から振り返れば、「神聖かまってちゃん」にしろ「相対性理論」にしろ、もう全盛期を過ぎてしまったのかもしれない。批評家達はこぞって「ゼロ年代」がどうとか、「テン年代」がどうとか、「大きな物語」がどうとか「小さな物語」がどうとか、色々口々に語ってきた。これらの批評家達は、流れている世界を彼らなりに、細々したその脳髄機能で整理したつもりだったのかもしれない。しかし、今考えれば、彼らは世界を整理したのではなく、正に世界から整理された存在ではなかったのか。…本当の事を言えば、二千年代以降の決定的な問題はここにある。つまり、頭の良い批評家達よりも、大衆が上昇し「大きな批評家」になったのではないか、という問題だ。
相対性理論というバンドは元々、その透明な歌声と、歌詞における違和感と、世界に対する小さな反抗心を隠していたバンドだったと思う。しかし、今やもう相対性理論というバンドそのものも色褪せ始めているのかもしれない。全てにおいて、物事は色褪せるのが早い。僕もまた色褪せるだろう。だが、そもそも、色がなかった存在には色褪せる事すら起きないだろう。彼らはただ、あらゆる色彩を殺す事にその生涯をかけるだろう。
※
「三千万年」という曲に、次のような歌詞がある。
三千万年前から 恋しているの
通勤快速ばっかの 電車に乗って
もうすぐ連休今夜は 用意してるの
三千万円ちょっとを リュックサックにつめて
歌詞だけではわかりくいだろうが、この曲は切ないメロディ、コード、歌声によって、今正に世界が終わろうとしているかのような、そんな切なさを歌っているものと考える事ができる。「三千万」という数字は、三百でも、三千でも駄目だが、それは言葉における違和感を醸し出す必要があるために、こういう数字が選ばれている。リュックサックに「三千万円」を詰めるというのは、普通の感覚からすれば途方も無い額だが、そこに「ちょっと」を加える事により、それは日常的な語に変容する。つまり、この人物はおそらく「三千万円」という額を日常的に「リュックサックにつめて」いるのかもしれないが、むしろ、その事により、言葉は一つの違和感、日常的なものと、そうでないものとの差において違和感を醸し出す事になる。
この時、大切なのは、こうした違和そのものが目的となっているわけではないという事だ。そうではなく、大切な事は、違和感を引き立たせる事により、この曲がある『切なさ』を伝えようとしているという事だ。これは「神聖かまってちゃん」の場合にはよりはっきりしてくる。神聖かまってちゃんには、「さわやかな朝」という曲がある。これはよりはっきりと、薄く透明な寂しさを表現として醸し出している。
ママが『早く食えよ』って、そりゃませかせか朝モード
パパが腕立て伏せを始めたら、
そう
同じ一日がやってきます
僕は何を学ぶのか
もしや世界が爆発しちゃうかも
なんてことが
あるわけねぇ
この時、この曲「さわやかな朝」は、相対性理論に比べれば、よりはっきりと世界に対する違和感、不全感を表明していると言う事ができる。この際、この曲の主人公はごく平凡で、のどかな日常、その朝の生活の中にいるのだが、同時にこの人物は朝の、ありきたりの空間に疑問を抱いている。おそらくはサラリーマンの父、良き母親、母の作る朝食、父の朝の日課の運動、それら全ては平凡でありきたりなものはずなのに、どこか歯車が狂っている。何かがおかしいーーしかし、そのおかしさは主人公だけが感じているもので、この曲の瞬間にしか現れないものに違いない。
「湾岸戦争今度で 何回目なの?
北口改札前から 愛を込めて」
「ほこりっぽい雨が 窓にあたるの
世界がみんな モノトーンに見える」
「もうすぐ連休今夜は 用意してるの
三千万円ちょっとを リュックサックに詰めて」
これらの歌詞は、全てが平板化し、透明化した現在に対するある感受性を示していると言う事ができるだろう。特にわかりやすいのは「湾岸戦争今度で 何回目なの?」という言葉だ。例えば、これを『小さな声による抗議』と、今僕が言ったとしても、それほどの誇張には当たらないだろう。世界には大きな声、巨大な事に言及する無数の叫喚がひしめいている。そこに、相対性理論、そしてボーカルの「やくしまるえつこ」はその透明で、やわらかな声で、疑問符をつけてみせる。つまり
「湾岸戦争今度で 何回目なの?」
…実際、何回目なのだろう?
※
これは自分の私的な文章ではなく、山田宗太朗さん主催の雑誌(ブログ)に載せる文章なので、あんまり長々と自分の哲学を語るのはよそうと思っている。できるだけ、簡潔に、僕ーーヤマダヒフミという個人から見た「相対性理論」の図を描きたいと考えている。
先に書いたように、相対性理論というバンドには「小さな声による反抗」があった。それをもっと明瞭に示すのは以下の様な曲である。
「先生 先生ってば先生
ああ 先生 フルネームで呼ばないで
下の名前で読んで
お願い お願いよ 先生」 (「地獄先生」)
「メガネは顔の一部じゃない
あなたはわたしの全てじゃない
恋するだけが乙女じゃない
素直なだけがいい子じゃない」 (「さわやか会社員」)
個人的には相対性理論の中ではこれら、「地獄先生」や「さわやか会社員」がもっとも良い曲だと僕は感じている。そしてどちらの曲でも、こうした小さな声による反抗は歌われている。
これらの歌詞を見るとはっきりする事だが、ここで相対性理論というバンドは世界全体に対する公式主義、固定観念に対して弱々しい声で抵抗しているのが見て取れる。現在において、ロックンロールというのが既に形式化してしまい、大げさな反抗の声はもはや、公式主義以外の何物でもなくなってしまった。例えば、現行の政治制度に反抗する様を見せつつ、自分のファンと戯れ、楽しげな顔で反抗を歌うロッカーとは、僕からすれば体制に依存している人間以外の何物でもない。もちろん、体制に依存するのは悪い事でもなんでもないが、体制に反発しているという見かけを保ちつつ、体制(システム)と慣れ合っているというアーティスト・作家の群れを、現在僕たちはあまりにも沢山目にする事ができる。これほど馬鹿げた事はないのだが、現在においてロックをもう一度再興するなら、それを新たな声に転化させなければならないだろう。そういう意味合いにおいて、神聖かまってちゃんや相対性理論は新たな世代(だった)と言う事ができるだろう。
僕の見方では、相対性理論の小さな反抗の声は、やくしまるえつこのソロ活動の楽曲に移し替えられたのではないかという気がする。その中でも、「ノルニル」という曲はやくしまるえつこの最高傑作と言っても良いのではないか。
「臨界点突破してるんだ
限界ならすでに去って
絶対的支配だって崩壊
終末理論は机上の空論でしか無いって
0と1の世界線の果てから叫ぶよ」
「宿命論なんかきっと妄想でしかないんだ
一か八か破壊しようか世界の仕組みを
今すぐ」
それまで相対性理論というバンドにおいて、静かに隠されていた小さな反抗心はこの曲では、より明瞭で、はっきりした宣言となって現れる事になった。ここまではっきりと、世界に対する静かな抵抗を見せた事は、相対性理論、やくしまるえつこの楽曲の中でもなかった事ではないかと思う。この場合、一般的なロッカー達が歌う反抗、反発はもはや単に形式的なものであり、自分や世界と慣れ合ったふやけたものでしかないが、ここにおいてやくしまるえつこは、アーティストとして大切な孤立、世界に対する抵抗の心を未だ持っている事が伺える。おそらく、世界が沈んでいく時にこそ、アーティストは向上を歌わなければならない。そして、もし世界が上昇していく時には、アーティストは下降しなければならない。人々、集団と離れなければ、個性と、それに由来する光は生まれない。
そういうわけで、相対性理論、そしてやくしまるえつこのソロ活動は一つの光芒を持っている。しかし、それもまた、現在の巨大な大衆社会の中に飲み込まれていく運命にあるかもしれない。しかし、正にそうした時にこそ、本物のアーティストは次のように、よりはっきりと歌わなければならないのだろう。
宿命論なんかきっと妄想でしかないんだ
一か八か破壊しようか世界の仕組みを
今すぐ