アヴァンギャルド・アウトテイクス

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#12/高校三年生の音楽論ーMr.Childrenの「根底にある暗さ」

突然だが私は暗い曲=マイナーコードの曲を非常に好んでいる。

賛否両論が起こりそうな作品であっても暗い曲であれば割と寛容な姿勢を見せる。知人のバンドだと話は別でパフォーマンスや全体の構成について考えるが、あまり関係ない一般人として聴く場合は暗い曲ばかり聴いているような気がする。自分のiPodを見れば一目瞭然で、人間性を疑われるようなもの――所謂「マニア向け」音楽と表現したらよいのだろうか――が結構登録されていた。

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 中学・高校と一番聴いていたのはMr.Childrenだった。この話をすると八割方驚かれるのだが、逆に私がどういった音楽を聴いていたと思っているのか尋ねてみたい。それくらいMr.Childrenは私の生活において身近な「青春時代」とも言えよう。

Mr.Childrenにおいて一つだけ不満を述べるならば(今回のタイトルにも挙げている「高校三年生」当時も同じことを訴えていた)デビューから「Tomorrow never knows」、アルバムで言えば4th「Atomic Heart」までは気にならなかった(寧ろ好きだった)ヴォーカル桜井和寿の歌い方が「奇跡の地球(ほし)」で競演した桑田佳祐のせいで巻き舌になってしまい、暫くは聞くに堪えないものとなったことだ。15thシングル「終わりなき旅」から改善が見られたが、これは1997年の活動休止が功を奏したものと考える。

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 Mr.Childrenのバンドとしての演奏能力はお世辞にも上手いとは言えない。
しかし小林武史がプロデューサーに就任してから楽曲としてのクオリティは非常に上がり一気にスターダムへのし上がるのだから、人間性はともかく小林武史という男は敏腕であり先見の明があったと言えよう。

その小林武史Mr.Childrenと初対面した際に「(雰囲気が)暗い」と回顧しているのを2011年の某番組で知ることができる。その暗さの程度はMr.Childrenが「ミスチル旋風」を巻き起こすきっかけとなった4thシングル「CROSS ROAD」においてミュージックステーションに出演した時の彼ら(特に桜井和寿)の瞳に宿らない光のなさに母親が「この人たち気持ち悪い」と言うくらい暗いを通り越した薄気味悪さ、であり「暗さ」を超越していたのは間違いない。

だから、というわけではないが恐らく1st「君がいた夏」のような淡い爽やかさよりも「All by myself」のようなリズミカルな作風や「Distance」「車の中でかくれてキスをしよう」(1st以外すべて2nd「Kind of Love」に収録)のようなバラードに見られるマイナーコード進行の「暗さ」が非常に彼らの根底にある暗さとマッチしているのである。

高校三年生の時、私の高校では選択科目「音楽・美術・書道」に「国語表現」(以下「国表」と記す)が加わった。二年間選択した音楽を諦め私は国表を選んだが後悔はしていない。というのも大学受験向け小論文講座がメインと謳っている割に、創作文芸に近いものだったからだ。

授業の一環で新聞を作ることになった。内容は自由。同じように国表を選択した同級生たちも苦戦しつつ楽しそうだった。片っ端から自由詩(主に母親の面白ネタ)を掲載した男子生徒、大好きなバレエについて熱く語る現役バレリーナの女子生徒など個性的な新聞が集まる中で、私のものは非常に駄作であり没個性だったことが窺い知れる。内容は今回の記事のタイトル通りである。音楽論でありマイナーコード進行の良さを書き殴ったつまらないものだ。

特にMr.Childrenと今は解散しているマイナーなバンドについて書いてあった。

 

Mr.Childrenはマイナーコードで活きるアーティスト』

 

この考えは今も変わらない。そしてこれからも変わらないのだろう。
具体例を挙げると5th「深海」の重たく息苦しさを覚える暗さは至高である(作品としては色々と述べたい件もあるが割愛する)。「深海」はMr.Children初のコンセプト・アルバムであり、明るい曲は排除された(「Tomorrow never knows」「everybody goes -秩序のない現代にドロップキック-」「【es】 〜Theme of es〜」「シーソーゲーム 〜勇敢な恋の歌〜」は「深海」リリース前に発売されている)。突然のやや青臭いバンドサウンドと音の作り方に驚いた人は多かっただろう。彼らはこのアルバムを現在は否定するような発言をしているが(作風、個々の曲としても)コアなMr.Childrenファンと話をすると「深海」そのものの評価は非常に高い。もしかするとリリース時期(1996年6月24日)からバンドの方向性についてもがき苦しんでいたのではと推測するがあくまでも私の邪推である。

2011年5月、震災で色々なものが自粛される中さいたまスーパーアリーナで開催された「Mr.Children TOUR 2011 "SENSE"」に参加した。その中で「シーラカンス」「深海」を披露したのである。その時の会場内の一瞬の歓声と、直ぐやってきた静寂がファンの心境を如実に表していたと思う。この二曲は対の意味合いがある(歌詞もだが主に作品としての意味合いが強い)ので「シーラカンス」が流れると必然的に「深海」を期待できるのである。

 

会場は、異様な空気だった。

 

勿論私は嬉しくて言葉が見つからなかったし、一緒に参加した友人(もMr.Childrenの昔からのファンである)も終演後に「シーラカンスと深海、予想通りだったじゃないか!」と興奮していた。
海底に沈んだままのものと、水面に浮上していく様が総合的に「転調」している一つの楽曲として成立している。リリース当時よりも彼らが突き抜け「深海」からゆっくりゆっくりと浮上している感覚。それは私が個人的に思い入れのある「ALIVE」(6th「BOLERO」収録)の最後の転調に非常に似た感覚だった。
この転調が非常に重要で、Mr.Childrenの暗さは「どんな状況に陥っても必ず上がるために必要な暗さ」であり、楽曲(特に1990年代後半に見られる)の構成として「ミスチルらしさ」の原点が含まれているように思う(「ALIVE」のブッダ参考説についても個人的に思うところがあるので別記事で述べたい)。

Mr.Childrenという「アイコン」は「暗さから脱却するためにもがく」のが魅力的な「葛藤を続ける人間」なのかもしれない。ふと、そんなことを思った。

最後に彼らの作詞で印象的なフレーズを一つ載せておく。

誰のためでも 誰のせいでもないから今は All by myself
時の流れが やがて僕にかたむきかける日まで

「All by myself」(2nd「Kind of Love」収録)



河原奈慧

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