アヴァンギャルド・アウトテイクス

Shiny Booksが発行する雑誌『アヴァンギャルドでいこう』の公式ブログです。ウェブ限定記事を中心に様々なトピックを提供していくのでお楽しみに!

#11/「かおりちゃん絶許」に学ぶー水橋かおりの愛され力

水橋かおり、という女性声優がいる。

今期では「魔法少女リリカルなのはViVid」の高町ヴィヴィオ、「グリサイア」シリーズの松嶋みちるに声を当てているが、代表作は何と言っても「ひだまりスケッチ」の宮子である。マミる人も代表作かもしれないが水橋かおりの良さ(人間性含む)を如実に表現できているのは宮子であり、水橋かおりだからこそ宮子が完成されたのだと私は断言する。

と、ここまで書いてアニメに興味を持っている人ならば水橋かおりの声を想像するには難くない。本題はここからであるハラダチャ-ン。



水橋かおりにはインターネット上にアンチが沢山いる。匿名掲示板ではアンチスレも存在し(しかし元来のアンチの定義が存在しないのだ。理由は後述)賑わいを見せている。その賑わい方が非常にアレである。
基本「アンチスレ」と呼ばれる場所には該当する人物や作品に対して厳しい言葉が並ぶ。声優ヲタは情報を集めて発言や行動、本人の素行について事細かく揚げ足取り(とここでは表現しておく。勿論例外はある)をしては笑っているアンダーグラウンドだ。
その世界で水橋かおりは、まるで女神であったり、妹であったり、娘であったりとアンチの心を掴んで離さない。どこかのまとめでは「日本一平和なアンチスレ」と表現されている。さてどういうことだろう。

水橋かおりのアンチが行う活動
・本人を顔文字( ´_J`)や、Jと表す(水橋かおりは鼻に特徴がある)。
・何かしら日常生活で嬉しいこと悲しいことがあると
 「かおりちゃん絶許」と語尾に付け報告する(大抵どうでもいい話題)。
・年々若返る水橋かおりに釘付けでも「かおりちゃん絶許」。
・おっぱいネタ厳禁(水橋かおりは幼児体型ではなく華奢なのである)。

絶許とは「絶対許さない」の略だと言われているが、このアンチスレでは「絶対許す」と読めてしまうのが恐ろしいところだ。アンチという名の「水橋かおりファン」である矛盾を抱えながら(これも気にしてはいけない)ほとんど親心で見守っている。しかし結婚の心配までするのは「まつらいさん」だけでいいと私は思う。まつらいさんについては機会があれば書く。


何故彼女がここまで愛されているのかを考えたい。
最近の声優は宣伝も兼ねてSNSなどで随時情報を発信している。それゆえ時に不用意な言葉で「炎上」が起きたりしてしまう。これは一般人にも言えることであろう。本人のTwitterやブログは勿論、バイラルメディアの発達による情報拡散の速さなど、ファンは必要なときに必要なだけ情報を得られる(不必要な情報も入ってくるデメリットも存在するが、ここでは言及しない)。

しかし、水橋かおりは別である。
本人名義のブログは存在している。存在はしているのだが


ブログを2年更新しないことがある。


彼女に毎日更新を求めてはならない。不必要どころか必要な情報すら発信されないのだ。勿論これは水橋かおりのツンツン疑惑(ツンデレのツンを二乗してみるとわかりやすいだろうか)に起因しているのかもしれないが、よくて3日おき、その後数ヶ月の放置は当たり前となっている。水橋かおりアンチはメディアや雑誌の情報を必死に探し翻弄されながらも、彼女が出演する番組やイベントを発掘し応援するのである。
相変わらずブログ更新が2014年12月で止まったままのかおりちゃん絶許。



昔のアイドルはスキャンダルがあれば週刊誌にスッパ抜かれ大騒ぎになった。それは本人から情報発信するツールがなかったことも理由として挙げられるはずだ。そして平成、インターネットの急速な普及により比較的簡単に情報を手に入れられるようになった我々アンチにとって水橋かおりはスキャンダル皆無、発言にも問題がない「昔のアイドル」なのかもしれない(記者が追いかける必要性もないので余計である)。

水橋かおり、彼女が愛される理由は「自分の話を積極的にSNSなどで発信しない」ことであり、今どきの若者では少々難しいSNSなどを使わない「沈黙」という努力が愛され力へ繋がるのかもしれない。本人はおそらくそんなことは1ミリも考えず面倒くさがっているだけだというのもアンチは知っている。
――そんなことを考えながら、水橋かおりの情報を探している超絶アンチがここにいる。夜更かしさせるかおりちゃん絶許。

追記:決して水橋かおりの前で「かおりちゃん」と呼んではいけない。読者の皆様には「ミズハス」をお勧めしておく。

河原奈慧

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#10/アルバムレビュー 『Tree』 SEKAI NO OWARI

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SEKAI NO OWARIが2011年に元来の日本語表記から、バンド名を現行のアルファベット表記に改めた際、邪推ながらも連想したのは同年に発生した『東日本大震災のことでした。“世界の終わり”は現実化してしまった。それでもなお“終わり”そのものを表現し続ける意味を彼等自身が見いだせなくなったのではないか――。無論、これはあくまで“邪推”であって東日本大震災と彼等のバンド名の変更に直接的な関係があるかどうかは良く分かりません。
 
バンド名の変更以後彼等が体現するイメージは変わったように感じます。初期の『幻の命』といった楽曲の背景に存在しているものが『現実』であるとするならば、いまの彼等の楽曲の背景にあるものは、『ファンタジー』であると言えるでしょう。
『終わり』が現実化した“いま・ここ”に残されたものは、廃墟を漂う幽霊のような“妄想”であり“ホビー”であり、“漫画”であり“ゲーム”であり、“東京オリンピックに人々が抱く異様な期待感”です。

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2015年1月14日にリリースされたSEKAI NO OWARIのメジャー・デビュー後、第二作目のアルバム『Tree』は、言うなれば“幽霊が漂う廃墟”に打ち立てられた巨大樹です。誰もがその巨大樹が“作り物”であることを知っています。SEKAI NO OWARIが巨大樹にどのような思いを込めたとしても、巨大樹もまた“妄想”や“ホビー”の一つとして世の中に回収されていくことは事実です。そして“妄想”や“ホビー”が語る物語とSEKAI NO OWARIが体現する物語は必ずしも一致しません。
 
それでも彼等は『Tree』を通じて“妄想”や“ホビー”といった異なる物語にカーニバルへの招待状を“誠実に”送ることを試みています。かつ“カーニバルに来ない客”のことを“他者”として尊重することも忘れていない。
『Tree』は現実と隔絶した“セカイ”ではなく、“終わりを迎えた後の世界”から生まれたアルバムです。
彼等はファンタジーを体現しながらも、極めて真剣に世界と対峙しています。
 
 
1.the bell
教会の鐘が鳴る音が収録されたトラック。
 
 
2.炎と森のカーニバル
『Tree』へのインビテーション・カードのような位置付けの楽曲。吹奏楽団が録音に参加しており、街を練り歩くマーチング・バンドを思わせる楽器編成で演奏される曲でもあります。『炎と森のカーニバル』というタイトルとサビのフレーズに対し、Aメロの冒頭に用いられる単語が『YOKOHAMA』であることは面白い事実です。『YOKOHAMA』と『炎と森のカーニバル』は一つの作品の中に隣接して置くことが出来る要素であるということでしょう――『炎と森のカーニバル』から地名を切り離したら、カーニバルは“いま・ここ”から遠のいてしまう――か。
 
『炎と森のカーニバル』は衣装とPVの完成度が、非常に高い楽曲でもあります。
PVにおいて、SEKAI NO OWARIとバックの楽団のメンバーは真紅を基調にした衣装に身を包んでいます。そして『ミイラ男』といった“非現実的な存在”だけが白を基調とした衣装を着用しています。SEKAI NO OWARIのメンバーはPVの終盤において彼等と“死体”を想起させるダンスを踊り、Fukase以外の登場人物はやがて胸の前で腕をクロスさせ――棺桶の中の遺体のように――動きを止め、物語の主人公に当たるFukaseだけが“非現実的な存在”及び、彼等と“同化”してしまった他のメンバーの元を去ります。
 
3.スノーマジックファンタジー
『Tree』の収録曲の中で最も強く “甘い死”のイメージを打ち出した、退廃的でさえある楽曲だと言えるでしょう。
 
『スノーマジックファンタジー』のPVは“窓が無い空間”の中でSEKAI NO OWARIのメンバーが自在に曲に合わせ、踊るというものです。そして、曲の展開に応じて『Saoriの首から上だけが異様に拡大され、他のメンバーと彼女の身体のサイズ感の差が非現実的なレベルに広がる』といった“マジック”が画面に施されます。“窓が無い空間”は言わば、外界の常識等から隔絶された“セカイ”です。『スノーマジックファンタジー』のPVとディズニーランド、或いは秋葉原のアニメ・ショップとの間に共通点を探すのは難しい作業ではありません。
 
*
 
『Tree』の収録曲は全13曲。
残り10曲(『4.ムーンライトステーション』『5.アースチャイルド』『6.マーメイドラプソディー』『7.ピエロ』『8.銀河街の悪夢』『9.Death Disco』『10.broken bone』『11.PLAY』『12.RPG』『13.Dragon Night』)のレビューは、本誌でお楽しみを。
『炎と森のカーニバル』と『RPG』を対比させながら、語ったり、『Death Disco』と『Dragon Night』に今後のSEKAI NO OWARIの活動の発展の形を見出したり……といろいろ試みてます。
 
上のレビューの続きが気になる方は、5月4日、文学フリマに是非お越しください!
 
九十現音

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※追記
本レビューの続きが掲載されたカルチャー雑誌『アヴァンギャルドでいこうvol.3』の通販が始まりました。興味を持ってくれた方、どうかぜひ一冊購入してくれるとありがたいです!

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#7/『ゴーン・ガール』(2014・米国)~誰にも、何も見えない~

 他人に対し『カッターナイフで滅茶苦茶に切り付けた手首』を見せ付けるような作品は露悪的です。一方で、受け手はかわいそうな子どもに向けるような同情の目線を持って、作品に接し、それ相応の感動を得ることが出来るでしょう。
例えば、TVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』に登場する惣流・アスカ・ラングレー。敵との戦いの中で大きな戦績をあげることが次第に出来なくなっていく彼女の『心の傷』に、人は感情移入をすることが出来るでしょう。f:id:shinybooks03:20150419151400j:plain
例えば、金原ひとみの著書『蛇にピアス』に登場する、舌にピアスを開ける登場人物たち。インスタントな自傷行為を行うキャラクターたちの姿に、読者は『愛の欠落』のようなものを感じるでしょう。何故、自らの身体を傷付けなくては自分の存在を確認することが出来ないのか?


新世紀エヴァンゲリオン』の登場人物も、『蛇にピアス』の登場人物も『~をする』ことではなく、『~である』ことへの承認を求めている人々であるという捉え方が出来ます。エヴァに乗るパイロットとしての自分ではなく、ただの十四歳としての自分を受け止めてくれる人物が現れることへの淡い期待や、周りの人物との関係性の中で現れてくる“キャラクター”ではなく“ピアスを開ける行為を通じて徹底的に自己と向き合う自分”を受け止めてくれる人への恋愛感情。

其処にあるものは“傷口を媒介としたコミュニケーション”です。傷そのものを受け止めあうことで辛うじてやり取りが成立している。
“傷付くこと”に可能性を無理やり見出そうとする行為。

『傷を媒介とする作品』とは似て非なるものとして存在するのが、他人に対し『シリコンで作られた偽物の手首の傷』を見せ付ける作品でしょう。それも“本物の傷”を隠すように上に糊で“シリコンの傷”を貼り付けている。

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デイヴィッド・フィンチャー監督の最新作『ゴーン・ガール』(2014)は“傷を隠す、シリコンの傷”を人に提示する作品だと考えます。
ニューヨークで雑誌のライターとして働いていたニック(ベン・アフレック)は、或る日エイミー(ロザムンド・パイク)と出会い、恋に落ちます。二人はやがて結婚します。しかし、不況の影響でニックは職を失い、またエイミーの母親が癌を発症したことにより、二人は愛するニューヨークから地方へと転居を余儀なくされます。そうして迎えた、結婚五年目の記念日の日にエイミーは失踪します。警察の調査が進む中で、供述の不可解さなどを理由にニックはエイミー殺しの第一容疑者となります。

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本作の白眉の一つが物語の冒頭、ニックに対しエイミーが自身の職業に関する三択クイズを出題する場面です。

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「エイミー、君は何者?」と尋ねるニックに対し、エイミーは『職業』に関する三択を提示します。
『A.骨や象牙の彫刻細工師』
『B.影響力のある軍事指導者』
『C.性格診断クイズの作者』
ニックは『(エイミーの手が)彫刻細工師にはほど遠い繊細な手』であることと、『「週間軍事指導者」で君の記事を見ない』ことを理由にクイズの正解を突き止めます。
一連のやり取りは非常にロマンティックなものとして劇中では扱われています。しかし、ニックとエイミーの決定的なすれ違いを予期させる要素が、出会いの瞬間に既に存在しているとも言えるでしょう。
ニックの問いは『エイミーの人格や性格に関するもの』と捉えることが出来ます。
エイミーはどのような本を好み、どのような音楽を好み、どのような教育を受けてきたのか。両親との関係は良好か。結婚願望の有無は?子供は欲しいか、否か。
そうした問いに対する答えとして、エイミーは自身の職業に関する言葉を用意しています。職業はその人の人格の“一部”を表すものに成り得ても、“アイデンティティーそのもの”としては不十分な要素です。即ち、エイミーの答えはニックの問いに対するものとして適しているとは言い難いものです。
また、ニックの答えが“消去法”によって導き出されたものである点にも注目したいと思います。ニックはエイミーを“性格診断クイズの作者に相応しい人物”であると考えたから、その答えを選んだわけではありません。ニックは、エイミーのことを“彫刻細工師”にも“軍事指導者”にも合致した人間であるとは考えなかったから、残りの選択肢を選んだに過ぎません。
『ゴーン・ガール』を恋愛映画として捉えるならば、上のやり取りはより“恋愛映画らしい”ものとして演出し、それに合った台詞を作成することが出来た筈です。
「エイミー、クイズの答えはCだろう?」
「どうして?」
「そう思ったから」
恋人たちの出会いを描く、ロマンティックなシーンに“消去法”のような論理性はさほど重要なものではありません。

作家であるエイミーの母親は、“理想化した娘”を描く『アメイジング・エイミー』という作品を執筆し、劇中で名声を得ています。『アメイジング・エイミー』の振る舞いや人生と、現実のエイミーの“差分”を追うことで、観客は劇中の“理想”と“現実”をそれぞれ追うことが出来るでしょう。往々にして凡庸な“恋愛映画”は、アメイジング“では無い”エイミーの存在を受け入れる他者の出現と関係性の構築を描くことで幕を閉じます。本作のもう一つの特徴は、男性と女性の関係性がある程度構築された“あと”の在り様を描いている点にあります。
エイミーは本作において、ニックという“アメイジングでは無い自分”を受け入れるパートナーを得ます。ただ、エイミーはその事によって“誰もが羨む幸せな現実”を手にした……とは考えません。

劇中でエイミーは“偽物のトラウマ”――恋愛トラブル、性的被害等――を他の登場人物、引いては観客に提示します。『とにかく、ひどかった』とエイミーの両親が語る、エイミーの性的トラウマは“実在しません”。
現代において“偽物のトラウマ”を語ることは、“コミュニケーションの無効化”を発生させると考えます。“心の傷”を媒介にするコミュニケーションは、情報の受け手と送り手が“どちらも精神的に傷付いた存在『である』”という『事実』、『現実』を前提条件とします。そうした前提条件の下、情報の送り手が受け手に対し『嘘』を発信した場合、その送り手は実質的にコミュニケーションを“拒否”していると考えられます。辛うじて成り立ち得るコミュニケーションに嘘を投げ込む行為は、コミュニケーションに対する破壊行為であるとも言えます。
『~ではないかもしれない』という不確定要素を投下するだけで、人と人のやり取りは簡単に壊れ得ます。では『~である』『~ではない』という判断を下すのは一体、何処の誰なのでしょう?
全ての人が小さなニックに成り得るのと同様に、全ての人が小さなエイミーに成り得ます。

本作において、ニックはエイミーとの離婚を検討します。ニックはエイミーのことを『サイコパス』とさえ、呼びます。しかし、劇中のある展開を通じ、ニックには『エイミーと結婚生活を続ける』という一種の社会的義務が発生します。

「エイミー、君は何者?」
その問いに対する答えは決して、返って来ません。
もし“小さなニック”に出来ることが何か一つでもあるとするならば、目前のエイミーを『エイミーである』と信じる――信じることへの“見返り”が全く無いとしても――ことぐらいのものでしょう。
そして、返って来る『答えに似た何か』に含まれている成分は、『現実である』かもしれないし『現実ではない』かもしれない、空気中を舞う粉砂糖に似た幻のようなものなのでしょう。

 

九十現音

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#6/秋が冬に恋する話~『秒速5センチメートル』と『言の葉の庭』~

朗読×劇「ほしのこえ」上演@渋谷(2015年4月23日~27日)

http://www.catmint-tai.com/

劇場用アニメーション『ほしのこえ』上映@下北沢(2015年4月18~5月1日)

http://homepage1.nifty.com/tollywood/

 

今回は、上記のイベントに勝手に便乗して、『ほしのこえ』の監督である新海誠さんの作品を取り上げます。

 

新海誠監督がロシアで高い人気を誇っているのをご存知でしょうか。たとえば5年ほど前には、ロシア人のアニメーション映画監督が新海作品にオマージュを捧げた短編フィルム『Я люблю тебя(I Love You)』をYouTubeにアップロードしています。

 


Я люблю тебя [1080p] [ENG, CHN, JAP softsub]

 

このロシアの短編アニメーションには、『秒速5センチメートル』を真似たカットやアングルがたくさん含まれています。

ところで、『秒速5センチメートル』のロシア語版DVDに封入されているブックレットのなかで、作品のキーワードが解説されています。「新幹線」や「先輩」といった日本独特の文化にたいする注釈が含まれている一方で、解説というよりむしろ解釈といったほうがよさそうな踏みこんだ説明も見受けられます。

そのような説明の対象になっているのが、貴樹の回想です。中学1年の冬、彼は小学校時代の同級生・明里の越していった岩舟を訪れたのでした。そのときのことを大人になってからふり返った彼は、雪降る夜の岩舟の情景について、こうつぶやいています。「人家の明かりはずっと遠くに疎らに見えるだけで…」。

この貴樹のモノローグにたいして、ロシア人の解説者は興味深い指摘をしています。曰く、ここには「明かり」と「遠く」という言葉があるが、それぞれ「明かり」=「篠原明里」、「遠く」=「遠野貴樹」を示唆していると。明里はまさしく貴樹にとっての明かりであり、遠野貴樹はつねにそこから遠く隔てられているという、そういう両者の性質ないし関係性を二人の名前は表しているのだと。「人家の明かりはずっと遠くに疎らに見えるだけで…」というモノローグには、実は物語のテーマが凝縮されているというのです。

たしかに、遠野貴樹ははるか遠くを見つめつづける存在です。しかもその対象は、明里=明かりに他ならないのでした。種子島に越して以来、貴樹はずっと遠くにわずかに見えるか見えないかの明かり=明里を求めて――まるで宇宙を旅する孤独なロケットのように――進みつづけることになります。けれど、それはすでに中学1年のときに彼自身が一度歩いた道のり(遠くに疎らに見える明かりへの道のり)の再現ということができます。この映画が春で始まり春で終わり円を描くように、貴樹も最初に歩んだ道をもう一度たどり直しているのです。ただただ明かり=明里を目指す道を。

登場人物の名前が彼らの関係性を暗示しているかもしれない――。この可能性を視聴者のある種の妄想として、しかし美しい妄想として引きうけ、それを別の新海作品にも当てはめてみることにします。

 

言の葉の庭』には軸となりうるテーマがいくつかありますが、今回は「問答」という観点からこの物語を再考してみようと思います。

高校教諭の雪野は新宿御苑で出会った高校生の孝雄に、別れぎわ、次のような歌を投げかけます。

 

雷神の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ

[雷が少し轟き、曇ってきて、雨でも降らないかしら。あなたを引きとめられるのに]

 

そのときの孝雄には分からないことでしたが、実はこの歌は二首で一対となる歌の前半部で、これには次のような歌がつづくはずでした。

 

雷神の 少し響みて 降らずとも われは留らむ 妹し留めば

[雷が少し轟き、雨が降らなくても、私は留まりますよ。あなたが引きとめて下されば]

 

これらは万葉集のなかの「問答」というセクションに属する歌で、「雨が降ったらあなたを引きとめられるのに」という呼びかけにたいして、「雨が降らなくても私はとどまりますよ、あなたが引きとめて下されば」と答えています。すなわち、歌で恋の問答=対話(ダイアローグ)をしているわけです。

しかし、はじめ孝雄には歌の意味が分からず、雪野の発したメッセージにふさわしい返答をすることができませんでした。彼女の言葉は一方通行のまま、いわばモノローグ(独白)として、宙ぶらりんになってしまいます。

ところが、やがて孝雄はこの歌の意味を知り、雪野にきちんと歌を返します。そして彼はついにこう自分の気持ちを告げるのです。「雪野さんが好きなんだと思う」と。けれど彼女はこのメッセージをはぐらかしてしまう。それとなく拒絶して、せっかく成立しかけたダイアローグを打ちきってしまう。こうして、今度は孝雄のメッセージがモノローグのように宙に浮いてしまいます。

そもそも孝雄という少年は非常に真っ直ぐな性格の持ち主で、「二つのものに憧れて」いました。靴作りの職人になること、そして雪野。彼は自分の世界をもっていて、ただひたすら前だけを向いて、はるか遠くにあるものに手を伸ばしつづけていました。彼の性格を鑑みれば、雪野に正面切って告白するのも自然なことだったかもしれません。しかし、ある観点から見ると、これは天地のひっくり返るような決断であったはずなのです。そしてまた、拒絶されるのも自然なことだったのです。

秋月孝雄と雪野由香里。二人の名字には季節を表す漢字が入っています。「秋」と「雪」。雪は冬の季語ですから、二人の名前には秋と冬を意味する文字が入っていることになります。ここには何らかの象徴がこめられているのではないか? 先のロシア人にならって、そう考えてみましょう。

結論からいえば、『言の葉の庭』というのは、「秋」が「冬」を追いもとめる話だとみなすことができます。秋は冬の直前にあるものの、決して追いこしてしまうことができません。いつか手が届きそうなのに、抱きすくめてしまえそうなのに、でも一つになることはできません。もちろん「秋」は孝雄です。「冬」は雪野であり、また靴作りの職人になる夢でもあります。「秋」は「冬」に恋い焦がれ、追いかけ、求めつづけているけれども、しかしそれはいくら手を伸ばしても届かない存在なのです。永遠の憧れ。

秋が冬に追いつくということ、異なる季節が交わるということは、自然の摂理を破壊することにほかなりません。同様に、高校教諭である雪野にとって、高校1年生が教師に恋心を打ち明け、それが成就してしまうことは、社会常識の破壊であり、許されない行為なのでした。だから理性を働かせて、この告白を拒絶します。なかったことにします。ところが孝雄が去ったのち、雪野の脳裏をめぐったのは、あの歌。

 

雷神の 少し響みて 降らずとも われは留らむ 妹し留めば

 

孝雄の言葉にたいして、今度は自分がそれに応える番であることを悟った雪野は階段を駆けおり、孝雄の熱量こもった荒々しいメッセージを受けとめ、彼を抱擁してこう叫びます。「あなたに救われてたの」。

このとき、『言の葉の庭』に問答=ダイアローグという新しい摂理が胎動しはじめるのです。

『新作アニメーション「言の葉の庭」によせて、思うこと』(http://shinkaimakoto.jp/kotonoha)を記した新海誠によれば、万葉の時代、「「恋」は「孤悲」と書いた」そうです。「愛に至る以前の、孤独に誰かを希求するしかない感情」が「孤悲」であるならば、「孤悲」とは成就した瞬間に霧消してしまう宿命にあるといえるでしょう。なぜなら「希求」という一方通行状態が「孤悲」なのであり、その「希求」が実現され交感が生まれれば、「孤悲」する状態も解消されてしまうからです。この「孤悲」は、「秋」が「冬」に焦がれるのに似ています。秋はつねに冬を追うものだからであり、追いついてしまえば、それは季節の概念を超出してしまうからです。

一方的なモノローグが双方向的なダイアローグに変わるという『言の葉の庭』の構成のうちに――降る新宿御苑月孝雄が野の手紙を読む光景に――「孤悲」から変貌した新たな生命が息づいています。

孤独のなか、星のように手の届かない何かを必死に希求する少年少女たちを、「秋が冬に恋する話」をひたすら描いてきた新海作品に、対話の可能性が萌したのです。


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#5/『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』~境界の消えた世界で

『逆転』とは野球においても、アメリカン・フットボールにおいても選挙の得票率においてもゲームのルールが強固なものであることが前提です。
また『逆転』とは、ゲームにおいて劣勢に陥っている主体の存在を必要としています。主体が劣勢に置かれる理由は、様々です。例えば、ゲームがスポーツであれば年齢や身体のガタは主体を不利な状況に置くには十分な理由です。

近年、『逆転』を最も魅力的に自作において描いた作家の一人が、『レスラー』、『ブラック・スワン』の監督であるダーレン・アロノフスキーです。『レスラー』と『ブラック・スワン』は逆転を扱う、一種の賭博映画です。

『レスラー』において、ランディ(ミッキー・ローク)は序盤、スーパーでアルバイトをしつつ細々とプロレスをしています。彼は元々、プロレス界のスターでした。彼は物語の中盤、一度はメジャー団体への復帰の好機を得ますが、筋肉増強剤の使用の為、心臓発作を起こし、彼はチャンスを棒に振ります。彼は一度はやけを起こし、ドラッグやセックスにのめり込みます。しかし、ランディはそうした生活を延々と送ることを――心の底から――望んでいたわけではありません。物語の終盤、彼はもう一度、リングに上がります。
『レスラー』の魅力を支えているものは、一つの構造の中での主体の浮沈であると言えます。
物語の中心には『プロレス』が強固に存在しており、中心に対するランディの位置と彼の願望、その二点を結ぶ距離の遠さによって物語のカタルシスの大きさが決定されているのです。また、その二点を結ぶこと、また点の入れ替えの困難さ――“困難である”と“信じられている”――も物語に推進力を与えています。
『レスラー』の魅力は壁の上、点から点へと飛び移るランディのジャンプ力にあります。
ただ――。あえて底意地の悪い指摘をするならば、ランディはあくまで壁の上、『移動』をしているに過ぎません。ランディは与えられた構造の中、生きている。ミッキー・ロークは革命家では無い、ということもまた『レスラー』は描いてしまっている、と僕は考えます。

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』は『逆転』に最早カタルシスを得ることが出来ない、“壁が崩壊した後の世界”を描いています。
『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』は『逆転』を描いた映画では無いのです。本作の世界にはランディは存在しません。正確に言うならば、ランディという存在を定義する前提条件であるプロレスという興業が“成立”していないのです。
Aという条件を支える、Bという基盤が崩壊したら残された条件はどうなるでしょうか。
AはAのつもりだったが、実はAが意味するところはAでは無くCだったかもしれない。

自分はレイモンド・カーヴァ―の見る目を信じ――カーヴァ―は自分の演劇を褒めてくれた――て、役者の道に進むことを決めた。しかし、レイモンド・カーヴァ―は劇作家じゃない。レイモンド・カーヴァ―は演劇を見た時、たまたま上機嫌でお世辞を振り撒いていただけなのかもしれない。
自分は演劇に命を掛けたつもりだった。しかし、劇場の控室を愛することが出来るかどうかは別問題だ。そこはただの部屋で、臭い。どうしても『其処が自分の居場所である』とは感じられない。


本作はかつてヒーロー映画『バードマン』シリーズで一世を風靡した俳優、リーガン・トムソン(マイケル・キートン)が再起を賭けブロードウェイ進出を図り、レイモンド・カーヴァ―の『愛について語るときに我々の語ること』の舞台化を行い、公演を開く姿を描いたものです。
リーガンは二十年前に『バードマン』シリーズの第四作の主演を断って以来、ヒット作に恵まれず、自身と“バードマン”を切り離すことが出来ず、苦しんでいます。
彼は自己を確立すべく、演劇に活路を見出し、友人のジェイクをプロデューサーに迎え、また薬物依存症から立ち直ったばかりの娘を付き人に起用し、舞台のプレビュー公演に臨みます。しかし、プレビュー公演はリハーサル中に役者の一名が負傷し、降板を余儀なくされ――リーガンは彼の降板を心の底では願っていました。彼の演技が余りに酷く、舞台の質を落とすものであったからです。――るなどトラブルが続きます。
負傷した役者の代わりに登板が決定したスター、マイク・シャイナーは演劇に対し、過剰なまでのリアリズム――ジンを飲むシーンでは、実際にジンを飲む。セックス・シーンでは実際にセックスをする。そうすることこそが客に感動を与えると彼は信じています――を求める男でした。リーガンはマイクの才能に惚れ込み、通常役者に払うギャラの四倍の金額を彼に払い、舞台に起用します。しかし、マイクは問題児でもありました。
リーガンは思い通りに進まないプレビュー公演にストレスを感じると同時に、自身を嘲るもう一人の自分の声に悩まされます。
マイクの言動に振り回され、プレビュー公演は散々な結果に終わり、そのまま彼等は本公演に挑みます。

演劇に出演する役者の役割とは、極めて常識的に考えるならば物語の中に観衆を引き込むことでしょう。無論、そうした役割は舞台を作る演出家、プロデューサーの役割でもあります。舞台とは、“虚構”であり“嘘”です。演劇とは役者、演出家、脚本家、プロデューサー、観衆を巻き込む嘘の共有です。
本作においてプレビュー公演が上手くいかない理由は、こうした“嘘の共有”に失敗しているから、と僕は捉えます。“嘘の共有”を阻む所作を見せるのは、マイクであり、他の誰でも無いイーガン自身でもあります。
初回のプレビュー公演の際、イーガンは舞台上でマイクがジンを飲むことを問題視し、机に置かれたボトルを水の入ったものへと差し替えます。
ボトルを差し替えられたことに気付いたマイクは、イーガンに対して激怒します。マイクにとって“酒を飲むシーン”で実際に酒を飲むことは、彼なりの役作りでもあったからです。舞台上でのイーガンとマイクの衝突を目の当たりにした、劇場の観衆は笑い声を上げます。舞台の上で描かれているものが“嘘”以外の何物でも無かった、という事実が“告発”され、その事が滑稽でさえあるからです。
上の場面において“嘘”は破壊されます。嘘が破壊された場において、後に残されるものは“現実”であり、“社会”です。本作において演劇と社会、嘘と現実は同一のキャンバスの上で混ぜ合わされ、ベタッと一体化しています。二つの差分自体が “無いも同然”なのです。
イーガンは他の場面においても、結果として“嘘”の破壊に加担してしまいます。舞台裏で愛人関係にある女優に対し、改めて関係について言及する言葉を掛ける場面は舞台に現実を流入させていると言えるでしょう。プレビュー公演中、喫煙の為、ローブ姿で外に出たイーガンが劇場から締め出され、ローブを脱ぎ捨て半裸で街を闊歩し、正面口から劇場に戻るシーンは劇場の内と外を接続してしまっていると言えるでしょう。

本作においては相反する二つの要素の差分が、“そもそも存在しない”、或るいは“かつて存在したいたかもしれない両者の区分には意味などなかった”かのように描き出されます。先に例に出した『レスラー』や『ブラック・スワン』が構造的、建築物的な映画であるとするならば『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』はより“流動的”な印象を持つ作品です。

物語が“流動的”であるとは、どのような事でしょうか。
“流動的”な物語には、強固な存在が登場しません。『レスラー』に“壁”が登場しているとするならば、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』ではその壁が完全に溶けている。壁が溶けた結果、その空間はどのように変容したか。壁の上下の行き来が非常に容易で、入れ換え可能なものと化しています。『壁の上部』と『壁の下部』の入れ替えを描くことはかつては“大きな革命”であり、観衆に大きなカタルシスを与えることが出来ました。しかし、両者の入れ換えは現代においては『日常化した小さな革命』でしかありません。壁の上部と下部は一秒ごとに呆気無く入れ換わるのです。

ジャズ・バーでイーガンとマイクが会話を交わす場面があります。マイクはブロードウェイにおける自身の実力、知名度の高さを主張し、ブロードウェイでは『バードマン』シリーズを通じたイーガンの人気は“通用しない”と言います。マイクはそれほど的外れなことを言っている訳ではありません。ブロードウェイにおける評価と映画界における評価は確かに全く別物であり、劇中に登場する批評家の言葉を追う限り、イーガンが演劇界で良い評価を得られていないことは事実です。マイクがスターであり、実力者であることは前述の通りです。しかし、ジャズ・バーで他の客から憧れの目線を向けられ、写真撮影を求められたのはマイクでは無くイーガンでした。

イーガンは『超越的であること』への憧れ、欲望を抱いていると僕は感じます。例えば、イーガンは度々“軽く手を動かしただけで、遠くの扉を開ける”といった超能力を使用します。物理法則を超えることは、超越的です。
バードマンとはその名が指す通り、鳥を模したスーパー・ヒーローです。イーガンは、自己と“バードマン”を別個の存在と捉えることが出来ません。本作にはイーガンが建物の屋上から街を見渡す場面、そして彼が空を飛ぶ場面――その場面が空想のものであるか、現実のものであるかという区別には最早“意味が無い”のです――が登場します。そして、イーガンの血を継ぐ娘のサムも度々建物の屋上から遥か下方を歩く人々を眺めます。彼女はマリファナを使用しています。イーガンはサムから没収したマリファナを、本公演を前に使用します。
物事を超越的、俯瞰的に捉える事とは物事を対象化するという事です。自分は物事の主体であると同時に小市民である。本作においては『無知な人間であること』と『スーパー・ヒーローであること』、『無名な人間であること』と『強い固有名を持つこと』、『大きな話題を呼ぶこと』と『忘却されること』に大きな違いが有りません。
本作には度々イーガンの主観を映したカット、イーガンの視点から撮影されたカットが登場します。その瞬間、イーガンと観客は同じ視野を共有します。
観客は『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』と無関係な存在であることを許されず、座席でポップコーンを食べている筈が流動化された世界へと引き摺りこまれていきます。悪夢的に。

流動的な世界における“大きな変化”とは、“流動的”なものです。
本作における“大きな変化”は、ストリート・ミュージシャンのドラム・ソロと連動する形で描かれます。例えば本作のオープニングはバスドラムハイハットの音に合わせ、画面上に文字列が表示されていくというものです。
音楽とは建築物のようにはマテリアルを持つものではありません。音楽とは“音の波”によって構成されるものであり、CDやアナログ・レコード、ドラムセット自体は音楽とはイコールでは無いからです。本作においてストリート・ミュージシャンは劇場の内外、場を問わずに出現します。彼の存在はイーガンが見た“幻想”とも考察することが可能です。アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督は流動化した世界において、懐古的にドラマーの身体性を賛美している訳では無いのです。イニャリトゥ監督はあくまでドラマーが作り出す“音の波”だけをスクリーンに映すことを試みている。イニャリトゥ監督のトライは誠実かつ、着実に効果を上げていると僕は考えます。


劇中で用いられる『スーパー・リアリズム』という言葉は、本作自身に向けられる賛美の言葉としても間違いなく、正しく機能します。『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』は小さな革命が日常化した流動的な世界を映した、傑作です。

九十現音

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#2/『幕が上がる』~少女、或いは“物語”への徹底的な肯定

“観察映画”という独自のジャンルで知られる想田和弘監督の最も興味深いドキュメンタリー作品の一つに、劇作家・平田オリザを取り上げた『演劇』を挙げることが出来ます。僕は合計五時間以上に渡る、前篇と後篇から構成される『演劇』を学生時代に渋谷の映画館で観たのですが、幾度となく撮影される稽古場での台詞の復唱、芝居の繰り返しと、後篇で取り上げられるロボットを人間の代わりに役者に仕立て上げる“ロボット演劇”のシーンは印象的なものでした。

“観察映画”はその成り立ちに一種の“不可能性”が内包されています。
何故ならば、対象者にカメラが向けられた時点で対象者の振る舞いには“映像作品の一つ”という意味合いが発生してしまうからです。

想田監督はそうした“不可能性”を何とかクリアするために涙ぐましい努力を行い、結果として“観察映画”の第一弾である『選挙』では大きな成果を挙げました。しかし、政治関係の人物よりもより“カメラ”に対して意識的な振る舞いを行う役者、そして劇作家に焦点を合わせた『演劇』からは、“観察映画”である以上に“何処までも徹底的にリアルな虚構”を映した作品というような手触りが感じられます。

『演劇』は“現実”を映している筈なのに、完成品は“虚実入り混じる作品”であるかのようにさえ思えてしまうのです。
例えば、『演劇1』のラスト・シーンは劇団の所属俳優の六十歳の誕生日の、サプライズ・パーティーの映像で締め括られます。サプライズ・パーティーは平田オリザの機転により“稽古の延長上”において、開催されます。その一連の映像は本来、微笑ましいものであるにも関わらず、所属俳優の人生が演劇の中に“回収され切ってしまっている”ようにも見え、非常に強い不穏さを宿しています。“演劇の中に回収され切った存在”は、『演劇2』に形を変えて登場します。それが平田オリザが取り組む“ロボット演劇”であり、役者としてのロボットです。

ロボットの行動は、“外圧”によって支えられているもの、と位置付けることが可能です。一見、自律的に判断し、部屋の中を駆け回るように見えるペット・ロボットに実は高度なセンサーが搭載されていることは自明です。ペット・ロボットの行動は『こうしたい!』という強い欲求に支えられている訳では無く、部屋の中の障害物と自身の距離感によって決定されている。即ち、行動を決定しているもの――“圧”を発しているもの――はロボット自身では無く、部屋の中の障害物である。ロボットとは、『与えられた役割』に応答を返すものと言い換えることも出来るでしょう。


2015年2月28日に公開された本広克行監督の映画『幕が上がる』には、『演劇』と幾つかの共通点があると僕は考えています。

まずどちらの作品にも平田オリザが関係しています。

『幕が上がる』の原作は平田オリザが執筆した小説であり、劇中には彼の劇団の劇場が登場し、平田オリザの人形もカメオ的に映像に映り込みます。後者については、前述の通りです。

『幕が上がる』と『演劇』は、どちらも“虚実入り混じる作品”です。後者は“虚”を生業とする役者を観察することにより、“何処までも徹底的にリアルな虚構”を映像上、作り出しています。『幕が上がる』は平田オリザによる小説を下敷きに、映画『桐島、部活やめるってよ』の脚本を担当した喜安浩平が書いた台本を用いて撮影された“虚構”です。

しかし、“虚構”には主演を務めるももいろクローバーZの五人が置かれている“現実”や活動の歴史、彼女たちの性格、イメージ、楽曲がふんだんに投入されており、作品は一種のメタフィクションとして“観察”することが可能な仕上がりでもあります。“虚構”に大量のリアルが投下されることにより、両者の境目が“やや曖昧になった状態”が生まれている。『幕が上がる』を実写化するにあたり、ももいろクローバーZを全員キャストした本広克行監督及び制作陣の決断には、大きな賞賛が与えられるべきだろうなと思います。

本作はももいろクローバーZの“赤”、百田夏菜子演じるさおりが地区予選で敗退し、先輩が引退した演劇部の部長の役目を、玉井詩織演じるユッコ、高城れに演じるがるるから“与えられる”ところから物語が始まります。

物語の序盤で描かれるさおりと、さおりが尊敬する“元部長”である“先輩”の海辺での写真撮影――“先輩”は卒業後も演劇を続けていく決意を固め、その決意を形に残すためさおりに自身の写真を撮るように依頼します――と会話は本作の一つのハイライトです。先輩はさおりに対し、自身とさおりがとても良く似ていることを告げます。さおりはカメラのファインダー越しに、先輩の姿を見つめます。 “良く似ている人間”をカメラ越しに観察することは、鏡で自分の姿を見ることと通じます。この場面が表していることは、二つあります。まず一つは、カメラのファインダー越しに先輩を見ることによりさおりは自身の近い未来を垣間見た、ということです。さおりが先輩の後を追うように演劇にのめり込んでいくことは、この場面から容易に想像出来ます。もう一つは、演劇部における先輩の役割がさおりに明確に移譲されたということです。

そうして部長に就任し、役割の大きさに戸惑うさおりの前に、新しく彼女が通う富士ヶ丘高校にやって来た、黒木華演じる吉岡先生が姿を見せます。学生時代、“学生演劇の女王”として有名だった吉岡先生は演劇部に的確な指導を与えていきます。吉岡先生は“先輩”と並びさおりのもう一つの憧れとして物語上、機能します。やがて、演劇部において吉岡先生が担う指導役としての役割もまた、さおりの元へと移譲されていきます。本作の大きなテーマには、こうした『役割の移譲』と『それを受け入れていくこと』が挙げられます。

移譲される役割とは、既に存在するものであることが『幕が上がる』の大きなポイントであると、僕は考えます。さおりが所属する演劇部は、さおりが入部する以前から存在したものです。演劇部の部長とは以前から存在するポジションであり、指導役の役割はさおりが確立したものでは無く、吉岡先生が確立したものです。

本作におけるさおりの行動、振る舞いがもし観客の目にダイナミックに映るなら、それは“役割”を引き受けることにその観客が大きな意味合い、一種のプレッシャーを感じているからでしょう。


『幕が上がる』は、フジテレビ制作による青春映画という側面を持ち合わせています。フジテレビ制作による青春映画には『がんばっていきまっしょい』、『ウォーターボーイズ』といった傑作映画が存在します。そして、個人的には『幕が上がる』を、上の二作の系譜に位置付けることは難しいと思っています。

がんばっていきまっしょい』と『ウォーターボーイズ』には、それぞれ『男性しか居ないボート部に女性が入部し、“女子ボート部”という新たな試みを実施していくこと』、『シンクロナイズドスイミングを男性が行うこと』という選択の異常性が存在しています。

例えば『がんばっていきまっしょい』には冒頭、荒廃したボート部の部室と残されたかつての主人公たちの写真が映されます。『がんばっていきまっしょい』は荒廃した部室と写真、かつての部員の活躍――彼女たちがボートを漕ぐ姿はとても美しいものです――を一作の中で描くことで、通常ならば到底考えられないような『異常な選択』が選択者に与える痛みと、選択が社会に“痕跡”を残すことが可能であることを同時に表現しています。選択は決して、無駄では無い。

『幕が上がる』には、選択の異常性が存在しません。さおりは自身の憧れの人の歩んだ道を追従し、周りの人間はその事をひたすら祝福します。吉岡先生がさおりの記した脚本に厳しい非難を浴びせるシーンは、劇中には在りません。さおりの両親は、彼女が演劇に興じることに全く否定的な感情を持っていません。さおりに恋心を持ち、迫る異性も本作には登場しません。それどころか、富士ヶ丘高校は共学の学校であるにも関わらず演劇部は女子のみで構成されており、劇中で恋愛や性に関する話題は所謂“百合的”なサービス・カットを除けば、登場しないと言っても過言ではありません。百田夏菜子をたぶらかすような男子は、誰一人この高校には居ないのです。

『幕が上がる』には何一つ、他者性が無く、さおりが願ったことは次々実現されていく、やや幼稚なユートピア的空間が出現しているとさえ言えます。ユートピアを“現実”に変換する通過儀礼も、通過儀礼として効果的に機能しているとは言えないと感じます。物語の終盤に差し掛かり、描かれる吉岡先生に関する“ある出来事”も、その出来事を経た後も吉岡先生が演劇から離れないことにより、さおりの“憧れ”に大してブレが無く、大きな儀礼として扱い辛いようなところがあります。あくまで役割の移譲を、一段前に進めるための要素としてのみ機能している、と僕は考えます。

物語の途中で吉岡先生が妊娠し、演劇を止めざるを得ない状況に肉体的にも経済的にも社会的にも追い込まれる。或いは吉岡先生が死ぬ。それくらいの衝撃は本来、この作品にあってしかるべきでは無いでしょうか。


本作のラストシーンには、ももいろクローバーZの『走れ!』という曲がバックで流されます。

『走れ!』は正直に言えば、本来なら『幕が上がる』のラストに掛かる曲として、あまり相応しくない。場面において取り上げられる題材と曲調が全くマッチしていないからです。仮に本作の主演が剛力彩芽武井咲前田敦子だったら。それでもこの場面が何とか成立しているのは、画面の中に居るのが富士ヶ丘高校の演劇部であると同時に、ももいろクローバーZのメンバーそのものだからです。

教員役として本作に度々カメオ出演するフジテレビのアナウンサーは、ももいろクローバーZのオフィシャル・アイテムを身に着けています『幕が上がる』は“さおりらの行動に対する無批判性”と、“ももいろクローバーZの状況、人気”を作品に投下することで、登場人物と役者を二重の意味で兎に角ひたすら徹底的に肯定しています。本作の製作陣はももいろクローバーZのメンバーが“外圧”に無邪気に対応していくことを全面的に良し――たとえそれが“ロミオとジュリエット”や“銀河鉄道の夜”のように使い古された物語であろうと、物語は素晴らしい――とし、その過程で本来生じるであろう痛みや課題は視界から意識的に除去している。

『幕が上がる』はももいろクローバーZのメンバー、及びそのファンに対して過剰にセンチメンタルな、甘いメッセージのみを投げ掛けている。さおりとしても、ももいろクローバーZの“赤”としてもスクリーンの中で使い古された物語に回収され切っている百田夏菜子の姿、或いは玉井詩織らの顔付きには、不穏さが内包されているような気がしてなりません。その“不穏さ”はもしかしたら監督を始めとする作り手にとって意図せず、映像に生じているものなのかもしれません。

九十現音

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#1/『ジョーカー・ゲーム』~敗戦国のスパイとして生きる

例えば『アベンジャーズ』に代表されるマーベル・ヒーローらの痛快なアクションが“ホット”なものとするなら、往々にしてスパイ・アクションとは“クール”なものと位置付けることが出来るのではないかと僕は思っていまして。その理由の一端は登場人物の衣装、或いは装備に求めることが出来るのではないか、と。

クリストファー・ノーランが『バットマン』シリーズを監督して以来、全国のスクリーンはアイデンティティの危機に直面し、狼狽するスーパー・ヒーローの顔面のアップで埋め尽くされがちになった訳ですが。

まあ無駄な装飾だらけのコスチュームを身に纏うヒーローが『僕って、何なんだろう……』と悩む様の滑稽さはそれはそれで見ごたえがあるし、良いと言えば良いのですがそれは兎も角、やはりアイアンマンとジェームズ・ボンドは別物です。

じゃあ、アイアンマンとジェームズ・ボンドの違いとはなんなのか。その違いはそれぞれの作品において『スーツ』がどのようなアイテムとして扱われているか、を考えると分かりやすいです。

トニー・スタークにとっての『スーツ』は窮地に陥った自らを助けるために開発した、火炎放射器等を搭載した一種の“強靭な肉体”です。無論、普段の彼は“ロバート・ダウニー・Jr”な訳ですが、必要に応じて彼は自身の肉体を拡張出来、テロと戦うことも、また――『アベンジャーズ:エイジ・オブ・ウルトロン』の一部のシーンが既にYouTube等にアップされている通り――ハルク討伐を行うことも出来る次第です。トニー・スタークにとっての『スーツ』は目的達成の為のツールであり、動的な存在であり、取り外し可能な強靭な肉体であり、“外部デバイス”です。

一方、ジェームズ・ボンドにとっての『スーツ』は身体に接続可能な外部デバイスでは無く、完全に身体に内在化されたものと言えるでしょう。外部デバイスの例に対応させるならば、ボンドにとってのスーツは“OS”といったところでしょうか。ボンドがどれだけ激しいアクションをしても、スーツは乱れず、ボタンの糸が千切れない……というのはただのジョークでは無く、如何なる危機的状況下においても彼が冷静であることを示しています。

ジェームズ・ボンドがスーツを身に纏うのはそれが『英国紳士の誇り』であると同時に、彼がスパイであり、職務の際には匿名性の高い服を着る必要があるからでしょう。何か特別な理由が無い限り、あえて目立つ服をスパイが着る必要があるとは考えづらいものです。電車の中の、中年の男女の姿を見れば分かる通りスーツは必要以上に何かを語ることはありません。ジェームズ・ボンドはスーツを着用することにより、異国のパーティーにも違和感なく溶け込むことが出来る。

トニー・スタークが自社の秘書の白人女性と男女の関係にあることに対し、ボンド・ガールは多国籍であることも興味深い点です。やや意地の悪い見方をすれば――、トニー・スタークは『自社の秘書の白人女性』と付き合うことにより、自身の『経営者』としてのアイデンティティと『白人』としてのアイデンティティと、『男性』としてのアイデンティティを強化していると言えます。即ち、トニー・スタークの女性趣味は極めて自己愛的なものです。一方でジェームズ・ボンドの女性趣味は、――相手の女性の国籍や体型、肌の色や文化が余りに多種多様であるが故に――その遍歴を追えば追う程、逆にボンド自身の“嗜好”が霧に隠れていってしまうようなところがあります。トニー・スタークが欲望に忠実な男であるとするならば、ジェームズ・ボンドは役割に忠実である。前者が“ホット”で、後者が“クール”と位置付けられる所以をこの辺りにも見出すことが出来るかと、思います。

2015年1月31日に公開された入江悠監督の最新作『ジョーカー・ゲーム』は、“ホット”か“クール”かで言えば間違いなく“クール”な作品であり、劇中、主演の亀梨和也は殆どのシーンで時代設定が戦時中の日本であるにも関わらず、スーツを着用しています。

亀梨和也が演じる“嘉藤次郎”にとってのスーツは、ジェームズ・ボンドにとってのスーツ――自らの身体と一体化した、揺るぎ無いもの――とは全く異なります。無論、トニー・スタークにとってのスーツとも根本的に違うものです。嘉藤にとってのスーツは、上司から着用を義務付けられた制服――軍服の代用品――に過ぎません。ボンドのスーツが“揺るぎ無いもの”であるのに対し、嘉藤のスーツは言わば付け焼刃です。

物語の冒頭、嘉藤は“軍人”としての挫折を経験し、後に上司となる諜報組織『D機関』のトップである結城から『軍人としての(嘉藤の)死』を告げられ、彼は――実質的に他の選択肢が無かったこともあり――D機関に加わることとなります。嘉藤は既に一回『死』を経験しており、D機関での訓練、及び活動は彼の第二の人生の“序盤”に位置するものと言えます。嘉藤の名前が“次郎”であることは制作陣にとって、偶然ではないでしょう。人生を切り開く役割を担う長男は既に死んでおり、後に残されたのは長男を追従する次男である。スパイ・アクションを行う亀梨和也のしなやかな身体つきや身のこなしは美しいものではありますが、一方で嘉藤が作戦中に犯す、ハニー・トラップに引っ掛かるなどの数多くのミスや、迂闊な動作は目を覆いたくなるほどです。正直に言ってしまえば、嘉藤はスパイとしてプロフェッショナルとは言えないようなところがあります。

ジョーカー・ゲーム』という作品は観客に、この映画が『第二次世界大戦の敗戦国で制作されたスパイ・アクション』であることを強く意識させます。

大きな理由は嘉藤が他者に“振り回され続けている”、重厚と言うよりはやや薄っぺらな存在感を持つ人物である点にあります。

まず“嘉藤次郎”の名は、本名では有りません。

“嘉藤次郎”とは諜報作戦向けに、上司から“青年”に対して提供された偽名であり、本作のラストでは“青年”に次の作戦向けの新たな名が与えられます。ジェームズ・ボンドがスパイでありながら、(基本的に)常に相手に本名を名乗り、“ジェームズ・ボンド”ブランドに様々な功績が蓄積されていくのに対し、“嘉藤次郎”の名にはほぼ何も蓄積しません。

本作のヒロインである深田恭子演じるリンは、嘉藤を再三に渡って翻弄し、嘉藤がD機関の作戦を通じて敵から奪った、新型爆弾の製造方法が記された“ブラックノート”を狙います。リンは海外に在住する日本人であり、アメリカ大使の家でメイドをしていま――或る種の変装として――す。リンは国の大義の為に何らかの行動をすることはありません。リンは言わば“ビジネスマン”的な志向を持つ女性であり、“アメリカに行くことへの憧れ”を口にし、メイド――メイドは元来の意味での日本文化ではありません――の服装に身を包みます。嘉藤とリンは劇中、ブラックノートを巡り、激しいアクションを繰り広げます。『ジョーカー・ゲーム』が第二次世界大戦当時を舞台にした作品であることを踏まえた上で、嘉藤とリンの戦闘に目を向けると、一つの物語の中で、一度でも『同じ国籍を持つ者が戦い合うこと』はやや奇怪なことでもあります。『鬼畜米英』を徹底的に敵として描き、日本人同士は“強く団結している”とする方が、戦争に関連した物語の設定としてはシンプルではないでしょうか。『同じ日本人が団結出来ずに居ること』『同じ日本人が完全にばらばらな志向を持っていること』は、強く“敗戦の可能性を秘めた事項”だと言えるでしょう。少なくとも、一種の“戦争映画”としては。そして“ビジネスマン”であるリンに騙され、一時はブラックノートを奪われる嘉藤は劇中、明らかにスパイとして“迅速に作戦を決行し、成功させること”に失敗しています。

嘉藤次郎はD機関の指導により、『死ぬこと』と『敵を殺すこと』を許可されてはいません。故に『ジョーカー・ゲーム』において、嘉藤は敵に向けて銃を撃つことはしません。同じスパイであるジェームズ・ボンドが再三、敵と銃撃戦を繰り広げるのとは対照的です。
映画における銃を『力』『決定権』を表すものと、仮に位置付けてみましょう。ジェームズ・ボンドには『力』があり、自らが保有する『決定権』に基づき、作戦を推し進めることも撤退することも出来る。作戦上の必要があれば、敵に銃を向ける『決定権』も彼にはあります。敵のボスと対峙した時に、ジェームズ・ボンドは相手に銃弾を放つことが出来ます。即ち、ジェームズ・ボンドは物事に『決着』を付けることが出来ます。
嘉藤次郎は、物事に『決着』を付けることは出来ません。彼が物事に決着を付けることが出来るとしたら、それは所謂“映画的なご都合主義”に基づくものであり、偶発性によるものです。『死ぬ』ことも『敵を殺す』ことも出来ない“去勢されたスパイ”に出来ることは敵から物を『掠め取る』ことであり、そして追手から『ただ、逃げること』だけです。本作において彼が追手から逃れるため、商店の幕やカーテンを上手く使いながら敵の目を欺き、逃走するシーンはその事実を上手く視覚的に表しています。『自身に関する決定権』も『軍事力』も持たずに、それでいて『目的』を達成するには何をすべきか。こうした課題は戦争の勝利国では無く、敗戦国にとって切実なものです。即ち、日本にとって。本作の『戦時中』の描写には既に日本が戦争に負けたという事実が内包されており、嘉藤の振る舞いは『課題にうろたえる日本人』の姿の比喩であると位置付けられます。

ジョーカー・ゲーム』をスクリーンで観る多くの観客は、彼等、彼女等自身の運命を“より大きなもの”に振り回されています。例えば遠いアメリカの経済危機が、日本の大学生の就職活動に影響を与えたように。“より大きなもの”に振り回される人間にとって、アイアンマン・スーツは“憧れ”、“妄想”の対象に過ぎません。トニー・スタークが自身の肉体を拡張できるのは、アイアンマン・スーツが手元にあるからです。そして、多くの人間にとって――手元に“スーツ”が無い状態で――“スーツ”の形状をゼロから考案することは難しいでしょう。『身体を拡張せずに、どうやって上手く生きていくか』の方が“現実的な、生活レベルの問題”として切実だったりするのでしょう。ジェームズ・ボンドのように役割に『揺るぎ無い責任』を追うことも、簡単ではないのでしょう。その『役割』自体が、“より大きなもの”に振り回され続けており、“揺るぎ無いもの”ではないから。果たしてアイアンマン・スーツもジェームズ・ボンドのような“誇り”も持たず、『自身に関する決定権』も持たず、『軍事力』も持たずに、それでも何か“目的”を達成するにはどうすれば良いのか――。嘉藤次郎の“未完成なスパイ”の振る舞いからは、かつて戦争で負け、以後アメリカに隷属し続けて来た国の若者――観客――の『何も出来ない……けど、何かしたい……』というような思い、或いはリアリティがひしひしと面白いくらいに伝わって来ます。嘉藤次郎が対面する現実と、『ジョーカー・ゲーム』に親しむ世代の現実は相似関係にあると僕は思うのです。


アヴァンギャルド・アウトテイクス #1、如何でしたか。アヴァンギャルド・アウトテイクスでは五月の文学フリマ in 東京でお披露目予定の『アヴァンギャルドでいこう Vol.3』に先駆け、Tumblr向けの記事や写真等を発表していく予定です。

アヴァンギャルドでいこう Vol.3』は現在、編集作業中です!特集テーマは『ファンタジー』。アイドルから映画、アニメ、ファッション等々幅広いジャンルを扱う、可愛い女の子が目印の濃い冊子になりますよ。

冊子の発売までは、アヴァンギャルド・アウトテイクス、またバックナンバーをお楽しみください。

九十現音

※追記

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